歴史散歩 Vol.92

アサヒシューズ

九州新幹線で筑後川を渡り久留米駅が近づくと左に巨大な黒い工場が見えます。大型煙突には縦に「アサヒシューズ」。その奥に白い大型ビルが背中を見せて建っています。これがアサヒシューズの本社です。(日本足袋開設時の鳥瞰図「軍都久留米の風景と暮らし」展より引用)

 久留米駅を降り直ぐ前の交差点を左折すると「ブリヂストン通り」です。郵便局の先を数十メートル歩くと左にアサヒシューズとブリヂストン久留米工場が隣接している入口があるのが判ります。
 
 久留米商工会館の屋上にゴム3社(アサヒシューズ、ブリヂストン、ムーンスター)の広告塔が設置されています。これは現在も存続している久留米商工業の象徴です。

 今回はこのアサヒシューズの歴史と現在を御紹介することといたします。(添付している資料写真は2017年2月16日見学会パンフレットから引用したものです。)

明治25(1892)年、初代石橋徳次郎が久留米市おこん川町で仕立物業「志まや」を創業し足袋の製造を始めました。現在のみずほ銀行久留米支店と西の道路部分を含んだところです。何故に道路部分を含むのか?昭和20年まで久留米の主要道だった旧・三本松町通りと明治通りの角に「志まや」はありました。旧・三本松町通りが米軍の空爆により廃墟となった後、戦後の区画整理で三本松町通りは西側に付け替えられました。「志まや」工場部分は道路敷地になっているのです。
(明治時代の古地図に現在の状況を書き込み)
 
 

 大正7(1918)年、石橋徳次郎は資本金100万円により「日本足袋株式會社」を設立します。本社は筑後川沿いの久留米市洗町に移転し、二代目石橋徳次郎が代表取締役社長に就任します。弟である正二郎は専務取締役として兄を支えました。土地登記簿謄本によると、大正11(1922)年、「志まや」があった土地は株式会社第一銀行に所有権移転登記をされています。同年、日本足袋は三池炭鉱の地下作業で使われることを当初の目的としゴム底を貼り付けた足袋(地下足袋)を開発します(「三池港周辺1」参照)。翌大正12年、同社は「アサヒ特許地下足袋」として一般販売を開始したところ、農作業や建築現場など他の用途でも有用であることが判り爆発的な大ヒットを記録します。日本足袋株式會社はこれによって巨万の富を得ることになりました。

昭和2(1927)年、九州医学専門学校(現久留米大学医学部)設立にあたり石橋兄弟は旭町に所有していた社宅用地の敷地の一部や校舎、設備等の寄贈を行います。日本足袋株式會社は久留米の学問・医療にも大きい貢献をなしてきたのです。昭和5年、正二郎が指揮するタイヤ部によって純国産タイヤ第1号が生まれます。背景には大正時代に国分村に設置されたドイツ兵俘虜収容所から就労した技術者の存在がありました(「ドイツ兵俘虜収容所1・2」参照)。昭和6年 日本足袋株式會社からタイヤ部門が分社化し「ブリッヂストンタイヤ株式會社(現・株式会社ブリヂストン)」が設立されます(「東京の石橋正二郎1」参照)。世界一のタイヤメーカーに成長した「ブリヂストン」は日本足袋が余剰資金を使って開始した<ベンチャー企業>だったのです。石橋迎賓館は昭和8年に石橋徳次郎社長私邸として建てられたものです(「石橋迎賓館」参照)。

昭和12(1937)年、日本足袋株式會社は「日本ゴム株式会社」に社名変更します。本年は久留米の商業にとって画期的な年でした。「旭屋デパート」が誕生したからです。時の久留米商工会議所の会頭は日本ゴム社長・石橋徳次郎でした。当然のことながら市役所・商工会議所も全面的に協力しました。地元の力を結集し久留米市の百貨店は誕生したのです。逆に言うと、かかる結集の核になれるほど日本ゴムの久留米の政治経済に対する力は大きかったと表現することが出来ます。
 敗戦後の昭和22(1947)年7月、日本ゴム株式会社は全国展開を見据えて本社を東京都麻布区(現・港区)へ移転します。占領軍による財閥解体の動きが顕著だったので2代目石橋徳次郎保有の日本タイヤ(ブリッヂストンタイヤから1942年に社名変更)株式と石橋正二郎保有の日本ゴム株式は交換され両社の資本・経営関係が完全に分離されました(日本ゴムを引き継いだ徳次郎・日本タイヤを引き継いだ正二郎)。昭和28(1953)年6月28日筑後川の氾濫により久留米は大水害にあいます。川沿いに設立されていた日本ゴム久留米工場は甚大な被害を受けましたが、社員の懸命な復旧作業により素早く立ち直り、生産を回復させています。昭和29(1954)年10月、日本ゴムは本社を東京都中央区京橋のブリヂストンビル内に移転しています。資本・経営関係が<完全分離>されても「事実上の血縁関係」は濃厚なものだったと表現できるのでしょう。
 昭和63年(1988)年 、日本ゴムは会社創立70周年を記念し「アサヒコーポレーション」に社名変更しました。「アサヒ」は日本ゴムが販売していた靴のブランド名。.この名称のほうが社会に知れ渡っていたので社名を合わせたのです(CI戦略)。しかし事後のアサヒコーポレーションは苦難の道を歩みます。経済活動の自由化が進み、生産拠点は海外移転が進みました。消費者ニーズが多様化し「庶民層の低価格志向」と「富裕層の高級品志向」2極分化が進んだため、アサヒコーポレーションは消費動向を捕まえきれないまま売上高が急減することになりました。 
 平成10(1998)年4月10日、アサヒコーポレーションは福岡地裁に対して会社更生手続開始の申立をしました。手形不渡りを出し銀行取引停止処分を受けた後の更生手続開始申立という、弁護士実務上、普通は考えられない失態でした。4月17日の日本経済新聞はアサヒの倒産劇をこう報じました。「4月10日アサヒ靴のアサヒコーポレーションは福岡地裁へ更生法適用の申請をした。経営破綻表面化から10日もかかった異常な倒産劇。銀行取引停止処分も受けたが、裁判所の保全命令もないまま福岡久留米市の主力工場には阻止線がひかれ従業員50人が債権回収の動きに備えた。同社は更生法申立のため急遽本社を東京から久留米に移転。法の適用が厳格な東京地裁ならば更生手続は拒否されたとする法曹関係者も多い。」アサヒコーポレーション東京本社の幹部と顧問弁護士は当初は東京地方裁判所に会社更生手続開始申立を検討していたようです。しかし東京地裁は倒産案件の数が膨大であるため厳格な運用準則が定められています。東京地裁では多数ある靴メーカーの1つに過ぎないアサヒコーポレーションが優遇的な扱いをされる見込みはありません。銀行取引停止処分を受けていた同社に更生見込みはないと判断される可能性がありました。それゆえ経営陣は急遽久留米市に本社を再移転させて福岡地方裁判所に会社更生手続開始を申立したのです。4月10日、福岡地裁は弁済禁止を含む保全管理命令を出し、西山陽雄弁護士を保全管理人に選任しました(代理として塙秀二・中澤裕子・市丸信敏・中山栄治・内田高明)。保全管理人は石橋徳次郎社長の任を解き地元の公共団体・経済界・金融機関に協力を要請しました。久留米に於けるアサヒコーポレーションの重要性を理解する多くの方々の協力の下、生産・営業活動は継続されました。7月13日、福岡地裁は更生手続開始決定を出し(平成10年ミ第2号・5ないし16号)更生管財人として木上勝征弁護士と四宮彰夫弁護士を選任しました(代理として三枝恒夫・塙信一・福島康夫・中澤裕子・増田勝久・中山栄治・上甲悌二)。私も(小型ながら)福岡地裁久留米支部で会社更生手続の保全管理人代理・更生管財人代理の仕事をした経験がありますので、その大変さは多少判ります。
 事後の会社更生手続の流れは以下のとおりです。
 平成12(2000)年12月  更生計画案が提出される。
 平成13(2001)年 3月  更生計画を裁判所が認可。
 平成28(2016)年12月  更生計画にもとづく弁済を履行完了。
 厳しい状況で努力された管財人団と従業員のご努力に敬意を表します。

2017年2月16日、石橋正二郎顕彰会主催「アサヒコーポレーション見学会」が行われました。私にも案内が来ましたので参加させて頂きました。正門に真新しいエンブレムがあります。
 
 風格のある本社ビルは外装が新しくなり、威厳を感じられます。

 エレベーターは手動性の古いもの(日本最古級)です。
 本社3階の講堂は長い歴史を感じさせる素晴らしいものです。
 
 屋上にあがって工場内の写真を撮らせて頂きました。
 
 工場内には、かつて久留米駅から直接に原材料や製品を出し入れしていた頃に設けられた貨物列車用の専用引込線の跡が残されています。
 靴の生産ラインは靴底(ゴム製品)と靴上部(アッパー縫製)に別れており、これを組み立て加硫(ゴムに硫黄を加えて加熱)することで一体化させます(*加硫の原理は1839年にアメリカのグッドイヤーが実験中に研究室で寝てしまい硫黄の入ったゴムを誤ってストーブで加熱させたことでゴムが強度と弾性を獲得することから偶然に発見されたものです)。生産ラインには多くの若手従業員が配されています。現在のアサヒコシューズは若い社員の力で成り立っているのです。これは私にとって意外なことでした。

アサヒシューズホームページを是非ご覧下さい。佐藤栄一郎社長は「メッセージ」のなかで次のように述べています。
 「我社は1892年に創業し100年以上に亘り日本の靴文化を支えてきました。現在、日本国内で使用されている靴の多くが海外で生産されています。しかし私共は「靴を通じて日本の健康づくりに貢献する」を企業理念に日本製にこだわった物づくりを行っています。「当社にしかできない独自の製品を100%国内で生産しお届けする」を目標に掲げ、過去の実績に固執することなく販売先の開拓や支援にも取り組みシニア世代のお客様のご要望にお応えする靴ブランドの開発と普及に力を注ぎました。おかげさまで当社の「快歩主義」に代表される、歩くことを医学的に分析し対応した靴や世界初膝のトラブルを予防するSHM®機能の靴「アサヒ・メディカルウォーク」などオンリーワンのものづくりにたくさんのご支持を頂いております。」 

1892年に創業し120年以上に亘り久留米の政治・経済・文化を支えてきたアサヒシューズ。「過去の実績」に慢心したために、会社更生申立という「苦難」を強いられることになりましたが、見事「更生」を果たし手続終結という区切りを迎えようとしています。アサヒシューズは久留米を代表する老舗企業。私も「メイド・イン・久留米」の靴を履くことで応援します。

* 2017年3月30日、アサヒコーポレーションは株主総会後に記者会見を開き、会社更生手続が同日で完了し、4月1日より社名を「アサヒシューズ」に変更すると発表しました。

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