歴史散歩 Vol.167

ちょっと寄り道(三田新橋)

東海道歴史散歩2日目は髙輪・白金台の著名地を巡った後で三田周辺(久留米藩上屋敷を含む)を徘徊し新橋まで歩きました。夜は賑やかな銀座の街を楽しく廻りました。
(参考文献:港区教育委員会「概説高輪築堤」、広瀬瑛「京浜東北線歴史散歩」(鷹書房)、東京都庭園美術館「旧朝香宮邸物語」アートダイバー、熊谷典子「東京10000歩ウォーキング№9」明治書院、松田力「東京建築さんぽマップ」エクスナリッジ、大内田史郎「東京名建築散歩」エクスナリッジ、小野田滋「東京鉄道遺産」講談社ブルーバックス、結城学他「東京の鉄道の謎を探る」天夢人、岡本哲史「銀座を歩く」学芸出版社、「あの日の銀座」武揚堂など)

朝食を取り「静鉄ホテルプレジオ東京田町」をチェックアウトする。田町駅から山手線で新橋駅に向かう。烏森口を降り「東急ステイ新橋」を探す。事前に調べてはいたのだが「東海道歴史散歩に絶好の位置」にあったことに改めて感銘を受けた(その意味は追って記述する)。フロントに荷物を預けて出発する。山手線に乗って「高輪ゲートウェイ」駅で降車した。駅前(西側)では大規模な再開発工事が行われている。おそらく10年後には未来的都市になっているのだろう。
 一般に駅の構内は下り場内信号機から上り場内信号機までをいい品川駅は2・46キロもあった。47万平方メートルの敷地に東京機関区・品川機関区・品川客車区・田町電車区・新幹線第1第2運転所といった運転関係機関、そのほかに品川車掌区・品川保線支区・品川信号支区のような業務施設関係機関もそろっていた。東海道線の心臓部のようなところだった。その一部を再開発する工事が行われているのである。この工事現場に関しては「髙輪築堤」遺構の発掘が話題である。この築堤は「新橋・横浜間」で明治5年(1872)に開業した国内初の鉄道建設時のものだ。線路は現在の芝浦から品川付近の2・7キロにわたって遠浅の海を細長く埋め立てて造られた築堤上に引かれた。何故、海岸縁の陸地に敷設出来なかったのか?土地所有者である当時の軍が海岸沿いに鉄道を通すことに強硬に反対したことによる(測量さえもさせなかった)。元大村藩邸(現在の芝浦1丁目8・9番地および芝4丁目18番地付近)から元薩摩藩邸(現在の田町駅付近)を経て八ツ山下まで海中に築堤して線路を敷くことになったのは(後の鉄道行政を推進する井上勝によると)大隈重信の英断による。鉄道建設費用はイギリスの銀行オリエンタル・バンクからの借り入れで賄われたが、その際の日本政府側全権が大隈重信だった。高さ約4メートルの築堤の海側石垣は寄せる波に耐えるよう築堤上部まで四角い石で覆って頑丈に作られている。石垣下方は建設時のまま残存している。船の通路として築堤一部を断つ形で設けた水路の跡もある。築堤上には高架橋脚跡が窪みとして残る。かつての浅瀬から見える無数の杭もある。念のため述べると、高輪築堤は現在の駅よりも陸地側にある。当時は海岸線が(現在よりも)はるかに内側にあったことが判る。港区教育委員会は令和2年8月から令和3年3月にかけて遺構調査を実施し「概説高輪築堤」を取り纏めている。良書。
 ゲートウェイ駅を出て右手に5分程歩くと「高輪大木戸」がある。享保9年(1724)に構築された。普通の街の構口の如きものであるが大都市江戸の入口であるから規模が大きい。宿場町品川が規範的に江戸の内外を分けていたのに対し髙輪大木戸は物理的に江戸の内外を分けていた。付近には茶屋が軒を連ね送迎の人で賑わっていたようだ。この大木戸は「暮れ六つから明け六つまで」閉じられていた(久留米の「六ツ門」はこれを真似たものか?)。伊能忠敬は全国を測量するにあたりこの大木戸を基点としたと伝わる。ちなみに「ゲートウェイ」なる奇異な駅名は「大木戸」を英訳したものであるようだ。単に「髙輪」ではなく「英語の表記」を付け加えたのは大規模な再開発が行われている現代東京の「南の入口」たるイメージを喚起したい行政的思惑だろうか。

交差点を渡って「泉岳寺」へ向かう。午前8時前だけど、お寺は当然のことながら開門している。「朝早くから回るのは寺社に限る」というのが私の旅の経験則である。泉岳寺は言うまでもなく赤穂藩浅野家の菩提寺であり赤穂浪士が祀られている。「赤穂事件」に関してはこれまで多くの書き物があるので私が付け加えるモノは何も無い。今回私が泉岳寺を訪れ浅野内匠頭や赤穂浪士の墓所を拝見したのは今年上程した「久留米おきあげと忠臣蔵」に使う写真を撮影したかったからである。驚いたのは「赤穂浪士四十七士」の墓所に寺坂吉右衛門の「墓」も見受けられたことだ。寺坂は赤穂浪士の中で唯一(吉良邸の襲撃に加わらず?)切腹を免れていた。少し納得できない感情を抱きながら墓を後にした(後で調べたら寺坂吉右衛門の「墓」は後日追加されたものみたいだ)。
 「義士館」には次の明治天皇勅書が残されている(明治元年11月5日)。

汝良雄等、固ク主従ノ儀ヲ執り、仇を復シテ法ニ死ス。
百世ノ下、人ヲシテ感奮興起セシム。 朕、深ク嘉賞ス。

明治元年に江戸に入った明治天皇が泉岳寺に遣わしたとされる。明治天皇の意思によるものではあり得ない。「京浜東北線歴史散歩」(鷹書房)で広瀬瑛氏はこう述べる「赤穂浪士は幕府のお膝元で直参旗本の吉良氏を暗殺した罪人で、決して嘉賞されるような集団ではない。しかし町人には人気があった。江戸入りし、旧幕臣の去就がはっきりしない時に新政府はこの町人の支持を得ることが必要だった。勅書を出したのは一種の町人懐柔策ともとれるのである。」薩長政権は自分の政治的意思を持たない少年の天皇を当時「玉」として扱っていた。上記勅書も事後の支配をやりやすくするための薩長政権による政治工作であろう。忠臣蔵の意味も複眼的に考えたほうが良さそうだ。

見学終了後「白金台方面への近道がないでしょうか?」と尋ねた。お寺の方は「右脇の細い道(高輪学園との境界になっている私道)を歩くと上方に抜けることができますよ。」と親切に御教示して下さった。こういう地元ならではの情報を得られると歴史散歩はうんと楽しくなる。
 細道を上り続けたら旧中原街道に出た。向かい側にある都営高輪団地の一帯は江戸時代に熊本藩細川家の下屋敷だったところだ。赤穂浪士は討ち入り後、4大名家に分散してお預けになったが、大石内蔵助以下16名が預けられたのがこの細川家屋敷であった。討ち入りから約1か月半後の元禄16年(1703)2月3日、幕府から「全員切腹」と沙汰が下り、翌2月4日細川家は庭に畳を敷いて座所(切腹の場)を設けた。この場で大石内蔵助以下16名が切腹したのだ。
 道を南に真っ直ぐ歩いていくと交差点。右折して天神坂を下る。「清正公前」の広い道路に出る。直進したら右手に「港区郷土歴史館」が現れた。この建物は建築家の内田祥三(よしかず)の設計、大倉土木(現大成建設)の施工により昭和13年に竣工した旧「公衆衛生院」である。内田は東京大学建築学科教授であった(後に総長)。この建物は米国ロックフェラー財団の支援をもとに建築された。初代「ゴジラ」映画においてもロケが行われており存在感をアピールしている。本来の用途が終了した後、バリアフリー化等の工事を行って再整備し平成30年に港区郷土歴史館として再オープンした。中央ホールは床や壁に高級石材が多数使われていて壮観である。講堂は340席を有する階段教室で見応えがある。内田が作り上げた東京大学本郷キャンパスの雰囲気だ。

少し西に歩いて「東京都庭園美術館」へ向かう。午前10時のオープン前だが、既に行列ができていた。お目当ては当然ながら「旧朝香宮邸」である。「アールデコ」建築様式の花形であり「レトロモダン建築の女王」たる品格を誇る。建築に詳しくない私ですら早くから知っていた。後で分かったことだが旧朝香宮邸内部はいつも見学できる訳ではないそうだ。私は何も知らず入場し内部を見学できたが、これは相当に運の良いことなのであった(9月23日から12月10日まで「装飾の庭」という開館40周年企画で一般公開されていたのである)。約15分ほど待って入場する。
 東京都庭園美術館のウェブサイトには以下の優れた説明があるので引用する。

アール・デコとは、1925年の4月から11月にかけてパリで開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)」の略称を由来とする名称であり、1925年様式(LE STYLE 1925)ともいわれています。1910年代から30年代にかけてフランスを中心にヨーロッパを席巻した工芸・建築・絵画・ファッションなど全ての分野に波及した装飾様式の総称です。工業の発展は、合成樹脂、鉄筋コンクリート、強化ガラスといった新素材を次々と生みだし、製品は大量生産され、19世紀とは全く違った商品と消費による新しい世界を開拓しました。新しい価値観は、まず用と美との両立を目指していた応用美術の作家たちにも新しい美の創造を促したのです。アール・ヌーヴォーの最も簡素な側面、キュビスム、ロシア・バレエなど様々な芸術を源泉として、直線と立体の知的な構成と、幾何学的模様の装飾をもつスタイルが徐々に確立されていきました。1920年代というのは、現代生活の枠組みができた時代であり、飛行機が飛び、汽船による観光旅行が盛んになり、汽車や車はスピードを上げ、世の中のあらゆるものがめまぐるしく動き始めました。この動き-リズミカルでメカニックな動きの表現が、アール・ヌーヴォーの有機的形態に取って代わり、鉱物的で直線的なアール・デコの基調となっています。

建物は鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階)地下1階。昭和4年(1929)年頃から建築準備に取り掛かり昭和8年5月に完成した(世界的不況の時代だが宮家には「どこ吹く風」だったのだろう)。外観は比較的地味で玄関ポーチの狛犬以外ほとんど装飾がみられないが、内装に当時流行のアール・デコ様式の粋が尽くされている。設計は宮内省内匠寮(担当技師は権藤要吉)。主要部屋の内装設計はフランス人アンリ・ラパンが担当している。正面玄関にある女神像ガラスレリーフや大客室シャンデリアなどはフランスの宝飾デザイナー・ガラス工芸家のルネ・ラリックが手掛けたもの。内装の見事さは私の文章力ではとても表現できない(興味のある方は是非一度鑑賞されたい)。新館にはミュージアムショップとカフェがあり見学後の時間をゆっくりと過ごすことが出来る。私は庭に面した屋外の席で抹茶のティラミスとコーヒーをいただいた。至福の時間。

都営三田線「白金台」から地下鉄に乗り「田町」で降車する。道を少し戻ると「札ノ辻」。高札が挙げられていたところである。高札は後の時代に高輪大木戸に移されたので「元札ノ辻」とも言う。真っ直ぐ北上するのが本来の東海道。このあたりの東海道は海岸沿いに町屋があり武家地は海岸から奥まった場所に設置された。ちょっと寄り道するために左折。直進すると微高地上に「慶應義塾大学三田校舎」がある。肥前島原藩中屋敷跡だ。大学受験時の明瞭な思い出がある。入試当日は三田の会場に数千人の受験生がいるはずだが誰もいない。不思議に思い守衛さんと会話。「はて?受験にきたんですけど」「どちらの学部ですか?」「経済学部です」「あ、それは昨日終わりました」。私は受験日を1日間違えていたのだ(当時は焦りましたが今では良い思い出:笑)。
 三田キャンパスの象徴である図書館(明治45年築)2階には慶應義塾の歴史を語る展示が溢れている。特に「交詢会」に関する説明が目を引いた。ウェブサイトに以下の説明がある。

「交詢社」は明治初期の頃、当時まだ「社交」という言葉が十分に使われていなかった時代に福澤諭吉先生の主唱により銀座の地に創られた日本最古の社交機関です。また同時に公益に関する事業を行うことをも目的とした財団法人として永年事業を展開し、平成23年7月より公益法人制度改革に沿い一般財団法人に移行しました。学校教育を終えて社会人となった人たちが、めざましく変化する実社会に対応するため、各人が互いの知識を交換し合って、流動する社会の実務に対処する機会を提供しようとの主旨で「知識を交換し世務を諮詢する」ことを目的に明治13年に設けられました。

この交詢社ビルについては「銀座」歴史散歩の中でも触れることになるだろう。
 図書館前の小公園は福澤公園と名づけられている。「福澤諭吉終焉之地」碑がある。福澤諭吉は明治4(1871)年、塾とともに私宅をここに設けた。立派な2階建ての洋館であったらしい。この地で福澤は4男5女を育てつつ多くの学生を教え、明治34年(1901)2月3日、波乱に富んだ66年の生涯を終えた。昭和20年5月の空襲で福澤邸は焼失し、昭和46年3月、この碑が設けられた。日本の近代化に大きな貢献をされた福澤諭吉先生の偉業を偲び合掌。

東門を出て北に歩く。道沿いの「芝地区町名由来版」に三田と赤羽橋の解説がある。三田は昔「御田」と表記された。伊勢神宮領の田であった名残だ。赤羽橋は久留米藩有馬家の上屋敷があったところ。約2万5千坪の広大なものだった。三田国際ビル・三田高校・赤羽小学校・簡保事務センター・済生会中央病院・国際福祉大学・三田病院が建っている場所の全部を占める。徳川幕府が久留米藩有馬家に対して相当の便宜を与えたことが窺われる。名物は水天宮と火の見櫓だった。日本橋蠣殻町にある水天宮は江戸時代は三田にあった。本宮は久留米にあるが(「水天宮界隈」参照)これを文政元年に9代藩主:有馬頼徳が上屋敷に勧請したのが江戸水天宮の始まりである。水天宮は江戸っ子の篤い信仰を集め塀越しに賽銭を投げ入れる人が後を絶たなかったので「毎月五の日」に屋敷を開放することになったのだ。もう1つの名物火の見櫓は幕府から増上寺の消火にあたる大名火消を命ぜられたため設置したもの。高さ三丈(約9メートル)を誇った。他家のは2丈5尺以内だったため「有馬の火の見は日本一」と称された。歌川広重も江戸百景「増上寺塔赤羽根橋」で火の見櫓を描いている。左が増上寺五重塔・右が火の見櫓の構図である。久留米藩有馬家に関係する有馬温泉・水天宮・火の見櫓を江戸っ子はこう詠んだ。「湯も水も火の見も有馬の名が高し。」この有馬屋敷は明治以降は海軍造兵廠となる。大正時代には「有馬ヶ原」といわれた広大な空き地であった。
 赤羽橋は(高速道路に覆われて目立たないが)古川を跨ぐ風情のある橋だ。南詰西側に親柱が保存されている。これを観ながら直進する。「三丁目の夕日」で建築途上の姿が印象的に描かれた東京タワーも周囲に高いビルが建ち並び小さく見える。昔の増上寺の境内は広大であり、今の芝公園と呼ばれる一帯は全て増上寺の境内であった。芝公園は(上野公園と同様に)徳川菩提寺の境内を削るため薩長主導明治政府によって意図的に公園化されたと言うことができる。裏口から(明治以降に寺地が削られた)現在の「増上寺」へ入る。小さくなった徳川家霊廟を拝見する。感銘を受ける。本堂の右手には赤と白の風車を立てた千体ほどの地蔵が並んでいる。「子育て」地蔵なのだが「水子」地蔵のように見えてしまうのは何故?正面の三解脱門を抜ける。周辺には増上寺の塔頭寺院が多い。大門前交差点から旧東海道に復帰。増上寺が東海道に面して建てられたことが良く判る。道を北上。東新橋歩道橋に架かる標識は「日本橋まで3キロ・銀座まで1キロ」を示していた。

今日の宿泊地である「東急ステイ新橋」に到着した。チェックインしてシャワーを浴び少し休憩。休憩後、ホテルを出て散歩する。眼前にあるのは明治44年に竣工した「日本初の煉瓦アーチ式高架」だ。現存する日本最古の高架鉄道である(錦糸町と両国間が最初だが架け替えられたので現存しない)。100年以上たった今も立派に存在感を示している。旧新橋駅(明治5年竣工)は現在の汐留にあり線路は東海道とクロスしていなかった(外側に平行していた)。汽車を通す東海道線を東京駅(大正3年竣工)に繋げるために東海道を跨ぐ高架を作ったのである。前回謎として述べた「東海道線が旧東海道を跨ぐ地点」は宿泊地「東急ステイ新橋」の直ぐ眼前にあったのだ!
 当時、鉄道庁では欧米視察から帰国したばかりの技師・仙石貢が、日本鉄道では九州鉄道で顧問を務めていたドイツ人のお雇い外国人ルムシュッテルが調査を行った。ルムシュッテルは「複線一組を長距離用:もう一組を市街線用に4本の線路をベルリンの高架鉄道をモデルとした煉瓦造アーチ式高架橋に走らせること」を提案する。「街路と外濠には(強度の理由から)鉄橋を架し、その他は全て径間8メートル程の煉瓦造連続拱橋(アーチ橋)とする」計画であった。鉄道庁はこれを参考に煉瓦造拱橋の設計を行った。施工は鹿島組が行った(同社は鉄道建設で高い技術力を発揮している)。完成した鉄橋と煉瓦造連続拱橋は(明治時代の工事なのに)大正13年の関東大震災でも・平成23年の東日本大震災でも全く損傷を受けていない。多少は補修したのかもしれないが(近時アーチ内側はコンクリート補強されている)基本的に昔のままだ。南禅寺インクラインや碓氷峠メガネ橋にも妥当することだが「明治時代の土木工事の堅固さ」には感銘を受ける。
 新橋駅は「鉄道唱歌」第1集第1番の歌詞により昔から非常に有名である。

汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として

この歌詞にいう「新橋」とは現在の新橋駅ではなく汐留の旧新橋駅である。鉄道唱歌の碑が(蒸気機関車の巨大な動輪と共に)旧新橋駅に向けて設置されているのはそのためである。
 現新橋駅は煉瓦造高架橋の工事進捗にともなって明治42(1909)年12月16日に「烏森(からすもり)駅」として産声をあげた。旧「新橋駅」が(蒸気機関車の引く)中長距離の東海道線列車が発着する駅だったのに対して烏森駅は(電車の引く)短距離の山手線に特化した専用駅としてスタートした。大正3(1914)年12月に東京駅が開業すると中長距離旅客列車のターミナルは東京駅へ移る。旧新橋駅は「汐留」と改称のうえ貨物駅に生まれ変わり烏森駅が伝統ある「新橋」の名を受け継いだ。新「新橋」駅にも東海道線列車が停まるようになった。現在、山手線と京浜東北線が2線ずつ計4線を高架橋で使っている。しかし当初は山手線と(後の)京浜東北線が2線を共用し東海道線の列車用に2線が充てられていたのである。その後、山手線と京浜東北線の分離が行われ、東海道線用の高架橋が、さらに時代が下って新幹線用の高架橋が、各増設されて現在に至る。
 烏森は烏森神社に由来する地名である。昭和7年地名変更で「新橋2丁目」とされた。烏森口に蒸気機関車C11・292が置かれている。昭和20年2月11日、日本車両株式会社で製造された(戦時型車両)。写真をFBに上げたら花田・向原両先生からコメントをいただいた。(花田)戦時中は工作を簡略化するために蒸気溜めや砂箱を円形ドームではなく角形にしていましたね。鉄ヲタとしては好みが分かれるところです。(向原)丸いほうがいいですね。鋳造なのか鍛造なのかわかりませんが丸いと手間は食いますね。蒸気溜めは、この形状だとすぐ劣化しそうに感じます。(私)新橋駅で両先生のような専門知識を以てこのC11を見る人はほぼ皆無でしょうね(笑)。

日比谷通りを芝公園方向に500メートルほど歩くと「浅野内匠頭終焉之地」碑が残る(新橋4丁目31)。旧田村右京大夫屋敷。元禄14年(1701)3月13日、浅野内匠頭は江戸城松ノ大廊下で吉良義央に侮辱を受け刃傷に及んだ。即日沙汰が下り、この地で切腹。辞世の句

 風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を如何とやせん 

新橋駅に戻り銀座に歩く。8丁目に残る銭湯「金春湯」に赴く。数年前この銭湯の存在を知り、いつか入りたいと思ってきた。狭い。ホントの庶民湯。公衆浴場としての統制価格下にあるため「大人520円・中人200円・小人100円」という庶民価格だ。湯船の壁面に描かれた富士山・錦鯉・鳳凰の絵が美しい。昔ながらの銭湯が銀座に残されていることに感銘を受ける(銀座1丁目には「銀座湯」もあるようだ)。この銀座7丁目8丁目の界隈は昔「花街」であった。その痕跡が金春湯と新橋会館なのだ。今でも新橋会館の5・6階には芸者衆の稽古場があるらしい。
 気温が高い上に湯上りで服が湿っぽくなってきた。銀座にユニクロがあるのは有り難い。さくっと安い服を購入する。旧東海道に面した銀座の一等地にあるのに銀座価格ではなく普通のユニクロ価格なのは流石だ(この価格破壊は周囲の高級店舗に著しい打撃を与えているであろう)。中央通りは歩行者天国。一見して外国人が多い。もうコロナ禍は終わったんだなと実感する。

夜は銀座7丁目「ライオン」で長年の友と飲み会。ライオンは現存するわが国最古のビアホール。外見は地味だけど内装は凄い(この極端な対比は意識的なものであり中に入って驚かせるための演出である)。このビルは昭和9年(1934)大日本麦酒株式会社の本社として竣工した(設計菅原栄三)。ビアホールの出現は花街風情が強かった銀座7丁目の雰囲気を大きく変えるものだった。ビル内装のコンセプトは「豊穣と収穫」。正面大壁画を含め壁面に12のガラスモザイク壁画が飾られている。柱上部の矢じりの如き装飾はビール原料である大麦をイメージしたものである。これらの内装で超人気の1階は予約不可。元事務所であった2階は個室になっており周囲に気兼ねなく話をすることが出来た(こちらは予約可能)。ゆっくり近況を語り合うには好都合だ。しかしながら、この建物の華はやはり1階である。2階の支払いを済ませた後、店員さんに了解を得て1階の写真を撮影させてもらった。FB上のグループ「レトロモダン建築」に投稿したところ多数の賛同を得た。この内部写真は「東京名建築散歩」(エクスナレッジ)の表紙にも使われており、東京を代表する店舗建築であることが判る。大満足でライオンを出た。友と再開を約して別れる。
 歩いてホテルに戻る。左に「新橋」遺構がある。昔は橋下を汐留川が流れていた。目線の直ぐ先に「旧新橋停車場」がある。この「銀座と旧新橋駅の近さ」こそが明治時代における「銀座の発展」を決定づけたのである。その意味は明日検討することになるだろう。(続)

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