歴史散歩 Vol.162

ちょっと寄り道(秋田3)

秋田の最終日は「六道の辻」や「草生津刑場」跡などを民俗学的に考察しながら歩きました。あわせて少し意外な産油国としての秋田にも触れてみました。(参考文献:秋田市「あきた羽州街道・時を超えた散歩道」、渡部景一「秋田市歴史地図」無明社、「秋田県の歴史」山川出版社、「秋田のトリセツ」昭文社、東北学院大学文学部歴史学科「大学で学ぶ東北の歴史」吉川弘文館など)

3日目の朝。ぐっすり眠れた。朝食後、ホテルを出て散歩開始。日銀秋田支店前の大町通り(旧羽州街道)を北に歩く。最初に「羽州街道」について言及しておくことにしよう。羽州街道は福島県の桑折から宮城・山形・秋田・青森の油川に至る東北の幹線道路である。秋田市における羽州街道は「城下町久保田」と「港町土崎」を通り男鹿街道との分かれ道「追分」に通じていた。
 旧金子家住宅を通り過ぎて突き当たるところが「通町」である。典型的な秋田商人町だ。突き当たって左折する。明らかに町の様子が違う。映画ロケ地になりそうな明るい街並み。歩いてしばらくすると見通しが急に遮られる。いくつかの道路が複雑に交差している。この地は「六道の辻」と呼ばれている(京都鳥辺野にもある地名)。この名称には日本人の死生観が反映している。理解するために「地獄図」を意識しよう。地獄図は上部に閻魔大王(裁判官)が描かれ横に書記官がいて前に裁かれる死者がいる。書記官は死者の生前の悪行を記した巻物を持っており死者は弁解するが脇に置かれている鏡に死者の悪行が映し出され、映像を元に閻魔大王は地獄に行く裁判を言い渡す。下部には地獄の絵が描かれ責め苦に苛まれる悪人の姿が描かれる。その隣に地蔵が描かれる。地蔵菩薩は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の冥界(六道)を支配しており閻魔大王の仮の姿との信仰が存在した。科学目線では世界は「均質の時間と空間」で満たされているが民俗学目線では世界のあちこちに「時空の歪んだ地点」が存在すると考えられた。「六道の辻」はその典型である。一般に「辻」とは交差点を指すが、ここでは「生者と死者の世界が交わるところ」を指し、時間と空間が変容するところを意味した。北にある3つの寺(声体寺・来迎寺・蓮住寺)を歩く。六地蔵が目に付く。六道の辻に面したこの地の寺院は、過剰なほどに冥界(六道)を意識して設営されてきたのである。
 この地には秋田と石崎を結ぶ電気軌道の停留所「新大工町」が存在した。六道の辻は江戸時代から昭和まで「秋田の西の入口」としての意味も有していたのだ。石崎方面から来た客は軌道をここで降り通町を歩いて市中心部に向った。だから通町は(羽州街道があまり使われなくなった後も)多くの市民で賑わっていた。通町が広くて明るい理由が判る。この停留所は秋田市電全体が廃止されるより早い昭和34年(1959年)に廃止。今、停留所の名残は無い。「秋田市歴史地図」に掲載された地図によると当時は市街地が小さく停留所近くまで水田があった事が分かる。

「六道の辻」を後にして鉄炮町通を西に向かって歩く。現代の羽州街道(56号線)を通り過ぎ「けやき通り」を渡る際、中央分離帯に一里塚跡が残る。左手に日吉八幡神社がある。現在は「神社」であるが、もともと八幡の本宮である宇佐宮(大分県宇佐市)は神仏混淆の色彩が強い。ここ秋田も例外ではなく昔は寿量院や神明堂などの寺院が立ち並んでいた。これらは明治初期の神仏分離で破壊されたのだが、現在も三重塔や随神門など神仏混淆時代の痕跡が僅かに残る。道の北側に巨大な石碑があり「庚申」の文字が刻まれている。庚申塚がたくさん並んでいる不動院である。
 八橋運動公園(南側に現在の中心市街である官庁街が広がる)の北を通り過ぎる。歩いていくと「面影橋」という印象的名称の橋に着く。普通の橋であるが、江戸時代の秋田にとって規範的意味の強い地点だった。民俗学的に「橋」はこの世とあの世を分ける意味を持つが、刑事施設が近くにある場合は特に「生と死を隔てる」意味合いが強くなった(私の「江戸時代における筑後の刑場」を参照されたし)。下を流れるのは草生津川(くそうづがわ)。名前の由来は後述する。
 面影橋を過ぎると右手にスーパー「パブリ」が現れる。地図を見ると周辺が広い陸上競技場の如き地割をされていることが判る。「競馬場」(畜産運動場)であった名残である。これは元畜産試験場だったのを大正天皇(皇太子時代)行啓を記念して「行啓記念畜産運動場」としたものである。江戸時代、この地は刑場(草生津刑場)であった。刑場は「当時のメインストリートである羽州街道」の脇に置かれていた。処刑は「みせしめ」であり権力の怖さを見せつける規範的な意味が与えられていたからだ。草生津川にかかる橋を渡るときに罪人が「今生の見納め」として水面に自分の面影を映したことから「面影橋」という名が付いたのだ。左手に宝塔寺・全良寺という古い寺院がある。かつて草生津刑場にあった無縁仏や供養塔はこれらの寺に移されているようである。職業柄、左手に現在も少年鑑別所が存在するのが目に付いた(地図上での認識)。この八橋は江戸時代に「行楽地」としての一面を有していた。見世物小屋や芝居小屋があり商店も多数並んでいたようだ。こういった特性は江戸の浅草・京の四条河原・大阪の千日前などと共通するものであった。
 この付近は古くから油の出る場所でもあった。草生津川の「くそうづ」とは石油の和名であり「臭い水」という意味らしい。昔からこの川の水に油が含まれていることは判っていたが、石油産業が活発化するのは明治40年代以降である。昭和10年に日本鉱業(現在のENEOS)が本格的に産油を開始した。秋田県は日本国内の石油の70%以上を生む「産油国」となったのだ。当時の日本にとって大変に喜ばしいことであっただろう。原油は土崎と船川(男鹿市船川)の製油所で精製されて日本各地に送られた。その軍事的意味を認識した米軍は停戦間際の昭和20年8月14日に土崎製油所を空襲している。敗戦後も石油産出は続き、秋田県の産油高は昭和30年代に年産30万キロリットルに達した。昭和40年代に急激に衰退したものの現在でも産油は継続されている。これが意外と知られていない秋田市の一面なのである。川沿いの公園(コスモス広場)には現在も「ウマヅラ」「ホースヘッド」との仇名があった採油機(ポンピングユニット)の遺構が残る。

帰路につく。若干の距離を歩いて再び「六道の辻」に帰還。今度はここから右折し寺町南側の寺院を歩くことにする。これらの寺は一直線に並んでいるのではなく階段状の(かぎ型の)道路に面した配置となっている。城下町で良く見受けられる「遠見遮断」のための意図的な地割である。寺町が「西側からの攻撃」から城下町を守る防衛ラインだったことが判る。秋田は「西側への視線」を強く意識して作られた町なのだ。視線とは逆に大町4丁目を「東に向かって」歩いてゆく。由緒ある紙店の店舗を拝見した。「那波伊四郎商店」という(明治11年創業・登録有形文化財)。明治19年の火事で市街の多くが焼失した後、土崎にあった町屋を移築したものである。直進し左折して赤レンガ通りを北に向かう。見慣れた「赤れんが郷土館」を通り過ぎ道路を渡ってホテルに戻る。

昼食は大町「無限堂本店」で稲庭うどんをいただいた。うどん好きの私はこの店の昼食を楽しみにしていたのである。秋田県稲庭うどん協同組合のウェブサイトには次の記述がある。

約350年の歴史を誇る「稲庭うどん」は、江戸時代の初期に稲庭地区小沢に住んでいた佐藤市兵衛が地元産の小麦粉を使って干しうどんを製造したのが始まりとされています。なめらかな舌ざわりとつるつるとしたのどごしの稲庭うどんはこの上なく上品と昔から食通の皆様の評価も高く、佐竹の殿様も当時の贈答品等としてご利用され好評を博しておりました。江戸時代の有名な紀行家菅江真澄の著書「雪の出羽路」にも稲庭うどんは美味しいとの記述があり当時から「知る人ぞ知る」逸品でありました。江戸時代から脈々と受け継がれてきた製造方法が昭和47年に公開されると家内工業から企業化され、製造量が大幅に増えることに伴い地元雇用や関連産業も増え、稲庭うどんは産業構造を変えていくものとなりました。今では秋田県を代表する産業として全国、そして世界に発信しております。日本三大うどんの1つとして、また秋田県を代表する名産品に発展した「稲庭うどん」。産地に伝わる伝統の製法を守り稲庭うどんの普及活動のため昭和51年稲庭うどん協議会を発足させ、協議会のさらなる充実発展を目的に、平成13年秋田県稲庭うどん協同組合が誕生しました。

期待に違わぬ結構な味であった。稲庭うどんは秋田歴史散歩の締めに絶好だった。

ホテルに戻り荷物を受け取って帰路に就く。川反バス停からリムジンバスに乗り空港へ向かう。
 空港の売店で土産物を買い搭乗ゲートに向かう。飛行機は定刻をやや遅れて秋田空港を離陸した。秋田市街の向こう側の海岸近くに土崎の港が見える。港に大型のフェリーが入港している。海岸には数えきれないほど多数の風力発電の風車がゆっくりと回っている。秋田と土崎を結んでいた軌道の跡らしい国道の路線も僅かながら確認できた。しかし江戸時代に多くの人が行き交った羽州街道は目視できない。それが人々の記憶から遠くなりつつある如く飛行機の上の私の視界から秋田は遠くなっていった。私の秋田歴史散歩はこれで幕を閉じた。<終>

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