歴史散歩 Vol.145

ちょっと寄り道(石巻)

東北を巡る旅の最後は石巻を歩きました。とても印象深い1日半になりました。
(参考文献)松尾芭蕉「おくの細道」角川ソフィア文庫、関屋淳子監修「奥の細道を歩く」JTBパブリッシング、小野寺豊「石巻古地図散歩」石巻日日新聞社、「石巻百科」石巻観光協会、報道写真集「巨大津波が襲った」「復興の歩み」「宮城ふるさとブック」河北新報社など。

4日目の朝。「松島センチュリーホテル」近くを散歩する。雄島と並んで赤い橋が映える福浦島に渡った。ここは雄島ほどの宗教性は感じられない。福浦島を出て松島の町を軽く廻る。約30分で散歩を終了。大浴場で汗を流しレストランで朝食を取ってチェックアウトする。本来なら「松島海岸」駅から仙石線に乗るところだが、仙石線が不通なのでタクシーをホテルまで呼んだ。行く先を告げる「石巻グランドホテルまでお願いします」。運転手さんは「判りました」と、返答された上で発車。こう話しを繋げられた。「私は以前、石巻で仕事してたんですよ・だから石巻のことは大体判ります」。笑いながらこう続けられた「うちの会社で石巻のことが良く判っている人間は私くらいじゃないかなあ・他の運転手だったらナビで確認しないとダメかもしれませんね」。私はこう返答した「そうですか・じゃあ、私は運が良いんですね」。運転手さんは「ホント、そうですよ」と笑いながら返答された。緊張が見事にほぐれた。運転手さんは話し好きな方であった。窓の風景について良く語ってくれた。印象深かったのは道路脇の「池のような風景」。普通の池のように見えたが、実は田んぼである。2日前の豪雨で完全に冠水して池のように見えているのだ。松島豪雨のすさまじさを知る。車は東松島市に入る。運転手さんは得意げに「ブルーインパルス」について説明してくれた。航空自衛隊松島基地がブルーインパルスのホームであり、救難・災害派遣等の任務にもあたっているそうだ。事前に予約すれば基地内を見学することも出来るのだという。石巻市に入った。ホテルはもうすぐだ。その時、運転手さんは若干重めの口調でこう話し始められた。

私は10年ほど前に妻を亡くしましてね。それ迄、お客さんと話をすることが大好きだったんですけど妻を亡くしてからは気力が無くなってしまって。人と会話をするのがツラくて。お客さんみたいな話し好きな人との会話が苦手だったんです。でも喰っていかなきゃならないし。少し重い気分で勤務していたんですね。でも最近なんか景色が変わってきて、自分の話しでも熱心に聞いて下さるお客様がいて、それを天国の妻が見たら喜んでくれんじゃないかって思えるようになってきたんです。ひょっとしたら自分は良い仕事をさせていただいているんだなって、感じられるようになってきました。だから今は仕事がとても楽しいんですよ。

私はほとんど絶句した。沈黙の時間は主観的に相当長く感じられた。私は自分より先に家族(妻子)が死ぬという事態を真剣に考えたことがなかった。でも人間何時死ぬか判らないのだ。妻子が自分より長く生きるという予測はそうあってほしいという願望に過ぎない。「死を忘れるな」(メメント・モリ)は自分だけの問題ではない。私は気を取り直して事後も少し雑談をした。内容はほとんど覚えていない。まもなくタクシーは石巻グランドホテルに到着した。料金は数千円だった。私は若干多めにお金を渡した。「おつりは結構です・残りは奥様の供養に・良いお話をお聞かせいただき有り難うございました」と明瞭に声に出した。運転手さんは「ああ、有り難うございます」と、かたじけなさそうに受け取られた。タクシーはホテルから走り去る。後で思い至る「運転手さんが語っていた10年ほど前って?もしや津波?」真実は判らない。もう運転手さんはいない。「あの運転手さんはもしや観音菩薩の化身であったのか?」と思いながら心の中で合掌した。

石巻グランドホテルのフロントに荷物を預けて街歩きに出発する。石巻の第1目標は、何と言っても「石ノ森漫画館」である。ホテルから歩いて行ける距離にある。行くまでの道程が楽しい。街中の至る所に石ノ森作品のキャラクター像が飾られている。それは「仮面ライダーブラック」であったり「サイボーグ003」であったり「ハカイダー」であったりする。キャラクター像だけではない。漫画館に至る道筋には石ノ森作品の一部を切り抜いたようなフラッグがあり、街の要所に現役漫画家の石ノ森章太郎に対するオマージュに満ちたモニュメントがある。言うまでもなく石ノ森章太郎は(手塚治虫・藤子不二雄・赤塚不二夫らとともに)戦後日本の漫画界をけん引した偉大な漫画家である。彼らが仲間と若き日々を過ごした「トキワ荘」(豊島区椎名町5丁目)は「日本漫画史における伝説的な存在」である。旧北上川の堤防が見えてきた。その向こう側、川の中州(中瀬)に「宇宙船のような建物」が見える。これが「石ノ森漫画館」だ。ほとんどマンガのような建物だ。それもそのはず。石ノ森章太郎先生自らがデザインし建築模型を製作して建てられた作品なのだ。大震災のときはこの建物も酷い状態に陥ったが、多くの方々の懸命の作業により復旧している。
 漫画館の開館は午前9時から。それまで時間があるので、直ぐ横にある旧ハリストス正教会堂を見学する。もちろん教会も未だ閉まっているので外部からの観察になる。この中州には以前は民家が多数あった。しかし大震災以降は民家が無くなり、空き地になっている。教会堂は明治13(1880)年、新田町に建てられたものである。木造教会堂として「日本最古」という。昭和53(1978)年、宮城県沖地震により被災したため、中瀬公園に移築復元された。平成23(2011)年、東日本大震災によって再度被災するも、市民の声により再復元されて現在に至っている。この建物は宗教・宗派を超えて「石巻市民の祈りの場」となっている。
 午前9時。漫画館の前にはコアなファンが待っていた。入場し指定された通路を進むと地元のヒーロー「シージェッター・カイト」を見る小劇場があった。親子で楽しめる定番ネタである。それから石ノ森先生の膨大な業績を拝見する。先生の漫画家としての偉業について私がここで語ってもしようがない。興味がある方はネット上のオマージュに満ちた石ノ森作品の凄さに触れてほしい。1階のミュージアムショップに向かう。私は本館特製のストラップ(「仮面ライダー」「サイボーグ009」「キカイダー」)を購入した。同時開催中(田宮模型)四駆車模型関係の展示も為されていたので、田宮公式ロゴ付きのマスクを2つ(白・黒)嬉々として購入した。久留米に戻ったら事務所待合室に展示することにしよう。これで石巻散歩の目標1つクリアである。
 
 歩いて石巻駅付近まで戻る。次の目標は南浜「震災津波復興祈念公園」だ。私はタクシーを拾って南浜に向かった。車は羽黒山を左目に直進し石巻高校に突き当たって左折。次の十字路を右折して坂を下る。しばらくすると広大な空き地の中心部に円柱状の建物が見えてくる。これが「宮城県立震災津波復興祈念館」である。北側軒の高さが襲ってきた津波の高さだという。とんでもない高さである。こんな巨大な波に襲われたら人間なんてひとたまりもない。館内には津波当時の状況や今後津波が発生したときの避難体制について詳細な展示が為されている。静かに鑑賞。展示物を拝見後、直ぐ橫にある人工的に造られた丘に登る。祈念館の周辺は空き地である。「復興祈念公園」と命名されている。もちろん、ここは11年前まで公園ではなかった。多くの人々が暮らした町だった。広島・長崎の「爆心地公園」を訪れたときの感情に重なる。公園はときに残酷な歴史を背後に潜ませている。日本の多くの公園に桜が植栽されているのはそのせいだ。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」(@梶井基次郎)。公園を出る。すぐ前(北側)に門脇小学校跡の廃墟がある。入り口前に売店があったので若干買い物をする。「義援金」の趣旨で少し多めにお金をお渡しした。すぐ南側にある日和山に登る。階段は結構きつい。津波の時、この階段を登り日和山に避難できた人は命を救われた。助かるか否かは一瞬の判断の差であった。<命の有無は紙一重>そう考えながら階段を登る。階段を登り切った先に立派な銅像があった。(2日目「大崎八幡宮」で言及した)川村孫兵衛その人である。川村は長門国阿武郡(現在の萩)の出身。毛利輝元に仕えたが、関ヶ原の戦後、西軍の主力毛利氏が大幅に減封された際に浪人となった。が、伊達政宗に才能を見出されて慶長6年に家臣となる。その川村は元和2(1616)年から寛永3(1626)年まで北上川の治水工事を担当した。その要点は「柳津と飯野川との間の流れを止めること、江合川と迫川を合流させること、北上川・迫川・江合川の流路を整理統合して真野川に合流させること」だった。これにより北上川沿で新田開発が盛んに行われるようになった。盛岡からの舟運が可能となり河口の石巻が藩米の大集荷地となった。湊・門脇・住吉に藩倉が建てられた。このようにして石巻は仙台藩の江戸廻米基地となり繁栄した。今も「川開き祭り」で川村の徳が顕彰されている。川村銅像から南側に震災津波復興祈念公園が見渡せる。旧北上川沿いに場所を移すと旧北上川と石巻の市街が広がっている。日和山は自然の展望台なのだ。

日和山を降りる。時間があるので川沿いを歩いて市街地中心に戻ることにした。「いしのまき元気いちば」2階のフードコートで元気丼(石巻港で水揚げされた新鮮なネタがたくさん乗せられている海鮮丼)をいただいた。川の向こうに石ノ森漫画館を見ながらの楽しい食事である。新鮮なネタがとても美味しい。石巻に来た甲斐があったと感じる。歩いて市内を散策する。突如として美しいタイルで全面を覆われた素晴らしいレトロモダンな建物が目に飛び込んできた。これが「旧観慶丸商店」(市指定文化財)である。配布されている資料によると観慶丸の歴史は次の5段階を経る。a千石船「観慶丸」時代(江戸時代)。石巻は東北最大の米積出港として賑わっていた。仙台藩の米は本石米と呼ばれ江戸の消費量の約3分の1を賄っていた。千石船は米を江戸に送り、江戸から商品を積んで帰るための重要な運搬手段であった(観慶丸は門脇村武山家千石船の名)。b観慶丸商店の時代(明治初期から大正時代)武山家に重用された須田幸助は雇われ船長として40年ほど観慶丸に乗船していた。その須田が自分で商売を始め陶器業で成功。「観慶丸」屋号で商売を続けた。c百貨店の時代(昭和5年から14年)当主となった須田幸一郎が昭和5年に現在の建物を建設。1階は陶器・2階は洋品化粧品・3階は食堂玩具レコードなどを取り揃えた。d陶器店の時代(昭和14年以降)幸一郎が商店を弟に任せ、別地で百貨店を開業・本店舗は陶器専業になった。e震災後(平成23年以降)津波で本建物の1階は浸水した。建物自体の損傷は比較的軽微。昭和初期近代建築として価値が高いので平成25年に建物が石巻市に寄贈され平成27年市指定文化財となった。事後、耐震化工事を経て現在の建物一般公開が開始された。ご尽力された関係者に感謝。

午後に予定していた目標は「宮城県慶長使節ミュージアム」(渡波)であった。支倉常長と伊達政宗の国際感覚についてウンチクを語るつもりだった。私は事前に仙台市役所に注文し「仙台市史特別編8慶長遣欧使節」を取り寄せていた。佐々木徹「慶長遣欧州使節・伊達政宗が夢見た国際外交」吉川弘文館も目を通している。豊臣時代から徳川時代への過渡期にあって伊達政宗は豊かな国際感覚を保持した。世界的「大航海時代」に良く対応していたのだ。宮城県慶長使節ミュージアムを訪れることは今回の旅の主要目的の1つであった。しかし私は渡波に行く気分を喪失していた。「サンファン号」が公開終了(21年3月)になっている点も大きいが、そういう外的要因では無く自分の内的な要因として「観光」気分が消失していたのである。私は地震と津波のことで頭がいっぱいになっていた。こればかりはどうしようもない。石巻駅に戻り仙石線の運行状況を確認する。仙石線はまだ回復していない。駅付設のカフェでくつろぐ。落ち着ける良い店だが間もなく閉鎖するとのこと。現実は厳しい。南側に折れて羽黒山方面に向かう。山裾の寿福寺に沿って左に廻る。この辺りはかつて夜の街だった。たくさんのスナックの看板があるが、今も開いている処はほぼ「無い」ようにも見える。それは「コロナ禍だから」という問題ではないようだ。複数の建物に「この線まで津波が上がってきました」なる表示がある。ホテルに戻りビュッフェにて夕食。健康睡眠。

翌日の朝(最終日)。午前4時頃には覚醒。夜明けを待ち午前5時頃から散歩に出る。内海橋を渡って川の反対側(八幡町)に足を延ばす。町名の由来は八幡神社。昔は栄えていただろう界隈も今は寂しい状態にある。橋を戻る。八幡町対岸にあるのが大嶋神社。延喜式内社の1つとして地元では「住吉神社」と親しまれてきた。津波で大きな被害を受け以前より高いところに建て替えられている。江戸時代、この辺りは川港として大いに賑わっていた。その賑わいをイメージしつつホテルに帰る。グランドホテル入口東角をみると「松尾芭蕉石巻宿所跡」を示す石碑があった。ホテルの人に伺うと確かにこの地が「芭蕉の石巻宿泊の地」なのであった。「おくの細道」の記述。

数百の廻船入り江につどひ、人家地をあらそひて竈の煙田立ち続けたり。思ひかけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれどさらに宿貸す人なし。やうやうまどしき小家に一夜を明かして明くればまた知らぬ道迷ひ行く。

芭蕉は当時の石巻を「人家が密集して炊事の煙が絶えない繁華な港町」と褒めつつ「誰も宿を貸してくれない」と愚痴を述べる。しかし随行した曽良「随行日記」によれば、芭蕉は知り合った武士:今野源左衛門の世話で立派な旅館に泊まっていたようだ。しかも、宿の主人は翌日途中まで道を案内しているらしい(即ち「おくの細道」石巻の箇所は虚構である)。私はこういった事情を知ってグランドホテルを予約した訳ではない。偶然に芭蕉と同じ足取りを辿っていたのだ。感銘を受ける。

チェックアウトを済ませ石巻駅に向かう。駅前通りに設置された「サイボーグ009」像が素敵である。駅に着く。もしも仙石線の不通状態が継続していたら私は高速バスで仙台に向かう予定であった。しかし仙石線は「平常通り」に動いている。何故か私の旅の期間だけ東北本線や仙石線が「平常ではない状態」にあったことになる。その故に私は塩竃から松島まで「舟旅」をすることができた。松島から石巻までタクシーに乗ることになって、運転手さんと「死を媒介にした深い会話」をすることができた。ほんとうに「不思議」としか言いようがない。
 私は歴史コラム「旅と鎮魂」にて次の内田樹先生の文を引用した(2011/11/15)。

能におけるワキの多くは旅の僧である。彼は秩序の周縁である土地に日の暮れる頃に疲れきってたどり着く。彼はそこに何らかのメッセージをもたらすためにやってきたわけではない。むしろ何かを聴くためにやってきたのである。彼はその土地について断片的なことしか知らない。だから、その空白を埋める情報を土地の者に尋ねる。そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち夢を見る。これが「存在しないもの」との伝統的な交渉の仕方なのである。

この旅で私は多くの「死者」を感じた。米ヶ袋の縛り地蔵・東北大学に所縁のある学者先生・伊達政宗を巡る物語・仙台空襲の死者・多賀城を基点に対峙した蝦夷と中央権力の闘い・松島に残された修行僧の息遣い・良い話をしていただいたタクシー運転手さん・東日本大震災(津波)の多くの被災者の方々。今回の私の旅は「夢」だったのか。だからこそ私は「存在しないもの」の声を聞いた気がするのであろうか。たぶん、この世とあの世の境は意外と曖昧なのだ。だからこそ時に「あの世」を意識することが「この世」を『より良く生きるために』不可欠なのだろう、きっと。
 そんなことを思いながら私は愛おしい石巻を後にした。仙台に戻り時間まで市内を少し散歩する。駅に戻り空港アクセス線で仙台空港に向かった。最初に仙台に着いたときとは全く違う感情で出発ロビーを通り、手荷物検査場を抜けて3538便に乗り込んだ。芭蕉の声が聞こえる。

月日は百台の過客にして、行き交う人もまた旅人なり。

飛行機は定刻通り仙台空港を離陸する。静かな太平洋を観ながら私は仙台・多賀城・松島・石巻に別れを告げた。夢の如き私の5日間の旅はこうして幕を閉じた。(完)

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