歴史散歩 Vol.103

ちょっと寄り道(池袋)

昨年末、東京へ出向く用件がありましたので、今回は池袋に宿を取って2泊3日で歩き回ってみました。文化・芸術が伝搬された痕跡を求めて江古田・目白・下落合にも足を伸ばしています。(参考文献)岡島慎二「これでいいのか豊島区」マイクロマガジン、伊藤一雄「池袋西口・戦後の匂い」合同フォレスト、逢坂まさよし他「首都圏住みたくない街」駒草出版、篠原正一「久留米人物誌」菊竹金文堂、宇佐美承「池袋モンパルナス」集英社文庫)など。 

羽田発の高速バスは池袋西口のホテルメトロポリタンに到着した。チェックイン時刻前なのでフロントに荷物を預けて周辺を歩き始める。メトロポリタンは西池袋随一の「シティホテル」である。昭和60(1985)年に開設されたホテルメトロポリタンは(当時は未開発であった)池袋駅西口の中心となるべく計画された。敷地は旧国鉄官舎跡地である。ホテルの運営主体となる「池袋ターミナルホテル株式会社」は当時の国鉄が50・25%、東武鉄道が25%等の出資で設立されている。北に少し歩くと東京芸術劇場がある。バブル真っ盛りの平成2(1990)年に開館した。池袋西口公園に突き出した形で建てられている。特徴ある外観も相まってその存在感は圧倒的である。世界最大級のパイプオルガンを備え、コンサートや演劇が年間を通して行われている。崇高な空間なのだが、直ぐ真横に複数の「ラブホテル」があるのが池袋らしいといえば失礼か。
 この界隈は長年「バラック街・ヤミ市場」として著名であった。池袋は昭和20年4月にアメリカ軍の空爆を受けた。付近の施設は全て焼失した。跡地にはドサクサにまぎれて応急のバラックが多数建てられた。昭和22年6月時点で13の連鎖商店街があり、そこに1200軒以上もの店舗が存在していた。バラック街・ヤミ市場は東京に多数存在したが、池袋の規模が大きかったのは山手線・赤羽線・武蔵野鉄道(西武池袋線)・東武東上線の要として人が集まったこと・埼玉の農業地帯と直結しているため農産物を高価に取引できたこと・巣鴨プリズン関係者からヤミ物資が流れていたこと等によるものらしい。ヤミ市で取り引きされる商品は通常価格の何十倍・時には何百倍という値段で売られていた。にも拘わらず、敗戦後の公的な配給物だけで生活を維持することができない窮乏の時代に食料品や生活必需品を調達できる場として、ヤミ市は都民生活に不可欠の存在であった。ヤミ市は統制経済のくびきから逃れようとする人々の「自由への渇望」が産み出したものだ。当然、池袋東口にもヤミ市場は存在したが、昭和24年から徐々に撤去され始め、昭和26年に姿を消してしまった。これに対して西口の巨大ヤミ市場は昭和36年まで姿をとどめていた。
 現在、池袋のイメージは渋谷・新宿に比べ極めて悪い。しかし戦前(明治・大正・昭和初期)の池袋は学問的自由を大いに謳歌できた文化・教育ゾーン(文教地区)であったのだ。このことは特に強調されなければならない。立教大学は明治7(1874)年に築地・明石町(外国人居留地)でアメリカ聖公会の宣教師ウイリアムズが開設した私塾を基礎にしている。大学に昇格したのは明治40年。このとき初代学長となったのが元田作之進である。元田は文久2(1862)年に久留米藩士元田佐市の家に生まれた(末子)。久留米師範学校の第1回卒業生である。山川小学校・甘木中学校等の教員を経て、明治19年渡米。帰国後に立教学校の教諭兼牧師となり明治40年の大学開設時に初代学長となった(当時は築地外国人居留地に所在)。立教は明治42年に池袋西の約1万7000坪の土地を購入し大正7(1918)年に正式に移転した。元田は池袋を文教ゾーンにした立役者なのだが、久留米の人にすら周知されていない(ちなみに浮羽で大正時代に演劇活動を展開した安元知之の母は元田の姉・「医師の劇団1」参照)。通りに面した1号館は移転時に竣工した立教大学のシンボルだ。蔦の絡まる美しい建物である。宣教師モリスの寄付により建設された。その名を冠し「モリス館」と呼ばれている。
 明治42年4月、豊島師範学校が現在の西口公園に開校した。解説板が公園中央にある。豊島師範は米軍の空襲で被災した。戦後は東京学芸大学と改組し小金井市に移転。跡地につくられたのが東京芸術劇場だ。明治45年、豊島師範の南側に(成蹊大学の前身である)成蹊実務学校が開設された。成蹊学園は次々に中学校・小学校・女学校を開設した。同校は勤労作業を取り入れた鍛練主義教育を施し有名になったが、大正13年に吉祥寺に移転し跡地は鉄道教習所となった。教習所跡に建つビルの一角に鉄道教習所を示す動輪モニュメントと解説板が設置されている。
 大正2年、教育家の羽仁吉一・もと子夫妻が西池袋に移転してきた。彼らは明治36年に「家庭の友」を・明治39年に「家庭女学講義」を発刊した。この地では更に「婦人之友」を新たに創刊した。夫妻は大正10年4月キリスト教に基づく自由主義教育を掲げた「自由学園」を創立した。今も偉容を誇る明日館(みょうにちかん)は大正10年に同校の校舎としてフランク・ロイド・ライト設計により建設されたものである。世界的建築家であるライトに対して設計を依頼することが出来たのは、帝国ホテル設計のために来日していたライトの助手を勤めた遠藤新が友人羽仁夫妻をライトに引きあわせたからである。木造漆喰塗の建物は中央棟・東教室棟・西教室棟をシンメトリーに配するプレイリースタイル。ライトが愛した大谷石がふんだんに使われている。小ぶりではあるが、ライトのこだわりが随所に散りばめられた素晴らしい建物だ。道路を隔てた南西に272人を収容できる遠藤新設計の講堂がある。現在も公開講座が開かれている。訪問の記念に無料配布されている講座のパンフレットを1部いただいた。パンフレットの扉に聖書の次の言葉が挙げられている。「真理は汝らを自由にする。」歩いてメトロポリタンに帰る。1日目の散歩はこれで終了。

2日目の朝。近所のカフェで軽い朝食を摂る。東口の西武池袋線に乗り3つめの江古田駅にて降りる。目的地は武蔵野音楽大学と日大芸術学部だ。江古田は特徴的な学生(要するに変人)が集まる自由の活気に溢れた若者の街である。武蔵野音楽大学は「のだめカンタービレ(コミック)」の舞台。変態の森。原作漫画の桃ケ丘音楽大学のモデルである(テレビドラマは洗足学園音楽大学でロケが行われた)。昭和4年1月16日、幡ヶ谷に仮校舎を借り武蔵野音楽学校創立事務所が設けられ授業も開始された。同年2月25日武蔵野音楽学校の設置が認可され、3月25日に江古田キャンパスの校舎が落成した。以後、同校は優れた音楽人を多数輩出している。二ノ宮知子氏が漫画でシャープに描いた同校の校舎は建て代わっている。左脇にあるショパンの小道が印象的である。日大芸術学部は大正10年3月、神田三崎町の日大法文学部内に開設された美学科が前身。昭和14年4月、現在の江古田校舎に移転した。以後、多くの芸術家・デザイナー・文化人らを輩出している。ニチゲイとして業界でも一目置かれている。ここも校舎が建て代わり、現代的な印象を与える建物になっている。年末で学生が全くいないのが残念。いずれも現在に繋がる江古田校舎が形成されたのは昭和初期である。戦前、長崎から下落合にかけて文化・芸術ゾーンが広がっていた(後述)。音大も日芸も、自由な地域的雰囲気の中で、当時は広大な敷地を得られた江古田に設立されたのである。
 西武池袋線に乗り椎名町で下車。ここは帝銀事件(昭和23年1月26日)で著名である。帝銀事件は帝国銀行(現三井住友銀行)椎名町支店で発生した殺人事件だ。毒物の扱いに慣れた旧陸軍731部隊(関東軍防疫給水部)関係者を中心に捜査が行われたが何故か「画家」平沢貞通氏が逮捕される。氏は苛烈な取調べ後に作成された自白調書の任意性を争い無罪主張するが昭和25年7月24日東京地裁により死刑判決。控訴・上告も棄却され判決が確定。氏は再審請求を17回・恩赦願を3回提出。法務大臣が執行命令にサインできないまま氏は昭和62年5月10日、肺炎により八王子医療刑務所で病死(95歳)。暗い記憶を嫌ってか駅北にあった椎名町支店は現存しない。帝銀事件の真相は闇の中でも人々の記憶に長く長く留まることであろう。
 北に歩きカトリック豊島教会に立ち寄る。1948年アイルランドの聖コロンバン会によって創立されたものである。1956年に現在の聖堂が建てられている。設計したのはアントニン・レーモンド。フランク・ロイド・ライトの弟子として来日し、多くの建築物を残した(軽井沢聖パウロカトリック教会など)。独特のステンドグラスが美しい。建具類は夫人のデザインによる。
 北西に歩いて行くと、狭い路地の入り組んだ住宅地が広がっている。戦前、池袋の西に存在した「池袋モンパルナス」(@小熊秀雄)と呼ばれる芸術ゾーンだ。旧長崎村(今の椎名町・千早町・要町周辺)で昭和11年、資産家が独身者用アトリエを作り貧しい画家たちに貸す事業を始めた。1戸分敷地約90平方メートルで約33平方メートルの家を70軒ほど作り当時の相場の半額15円で提供を開始する。ここに自由を求める芸術家の卵達が多く集まった。付近には「つつじヶ丘アトリエ村・桜ケ丘パルテノン・すずめが丘アトリエ村」と称するアトリエ付貸家が連なった。池袋モンパルナスは熊谷守一・麻生三郎・鳥居敏文・古澤岩美・長沢節・丸木位里・丸木俊子・海老原喜之助という昭和画檀を彩る多くの逸材を輩出するが、米軍の空爆により付近は焼け野原になり芸術家たちは散り散りになった。熊谷守一美術館以外に往時を偲ぶものはない(豊島区立郷土資料館にアトリエ村のジオラマが展示されている)。が戦後、その伝統は漫画家たちが集う「トキワ荘」(南長崎)へ受け継がれた。池袋に根付く自由を尊ぶ精神は簡単に消滅するような柔なものではなかったのだ。
 山手通りを南に歩いて左折し立教通りに入る。南に曲がり住宅街をさらに歩いてゆくと「上屋敷公園」がある。その直ぐ南にあるのが宮崎竜介・柳原白蓮邸である。宮崎竜介は宮崎滔天(近代中国の国父・孫文の支援者)の長男。一高から東大法学部に進んだエリート。その竜介と恋に落ちた柳原白蓮の夫伊藤傳右衛門に対する絶縁状は新聞に公開されスキャンダルとなった。両者は正式に結婚し白蓮は昭和42年に死去するまでこの家で過ごした。白蓮の生涯はドラマで有名になった。柳原白蓮は大正時代における「ノラ」だったのだ(@イプセン「人形の家」参照)。
 南に歩き目白に入る。高級住宅地の街並みが広がる。しばらく歩くと徳川黎明会の素晴らしい洋館がある。門には葵のご紋が入っている。昭和4年、尾張徳川家の家令・鈴木信吉は第19代当主徳川義親の美術館設立構想を具体化させた。昭和5年、尾張徳川家の御相談人会は名古屋大曽根邸敷地の一部を名古屋市に寄付し財団法人として徳川美術館を設立することを可決。昭和6年、財団法人尾張徳川黎明会が設立された。昭和7年、現在の地に財団施設として蓬左文庫が設置され、昭和10年、蓬左文庫と徳川美術館が東京と名古屋で各々開館し一般公開されたものだ。
 目白通りに出て西に歩く。下落合公園近くに「佐伯祐三アトリエ記念館」がある。佐伯祐三は東京美術学校在学中の大正9年に結婚すると、翌大正10年に下落合にアトリエ付き住宅を新築した。この地で佐伯が生活し創作をしたのは夫人と長女と共にフランスに向かう大正12年までと、大正15年に帰国し再びフランスに渡る昭和2年までの合わせて4年余りに過ぎない。大正期のアトリエ建築を今に伝える建物が残されている。目白駅側に戻ると「中村彝アトリエ記念館」がある。中村彝(つね)は大正期に活躍した洋画家だ。大正5年、下落合にアトリエを新築した。この下落合に残る彝のアトリエが復元され、平成25年からアトリエ記念館として公開されている。この辺りは池袋モンパルナスとともに戦前の文化の最先端だった。むしろ下落合に花開いた芸術圏の香りが旧長崎村や江古田に伝搬し現代に通じる文化的拠点になったと表現できる。文化は地域伝搬性を持つのである。
 目白の文化ゾーン地区は堤康次郎が率いる箱根土地株式会社が「目白文化村」として造成したもの。大正3(1914)年に下落合の大地主である宇田川家から2667坪を購入したのを皮切りに同社は周辺の土地を買い進め、大正11(1922)年に分譲を開始した(第1次文化村)。翌年に早大所有地だったところを分譲(第2次文化村)。以後も1924年(第33文化村)1925年(第4次文化村)と活発な開発活動を継続した。しかしながら昭和10(1935)年から山手通りの建設が始まり、文化村は縦断された。さらに戦時中の空爆により大半の住宅は焼失した。戦後、昭和42(1967)年の新目白通り開通により旧文化村一帯は寸断されて現在に至っている。目白駅まで歩き山手線で池袋に帰還。

3日目は池袋駅東側を廻る。今日は「池袋駅」の生い立ちから考えてみよう。江戸時代において池袋は何もなかった。明治18年に日本鉄道品川赤羽線が開設されたときも池袋は駅ではなかった。田端方面へ路線延長が計画された際、目白に駅が設けられる予定だったところ、住民の猛烈な反対運動が生じたので「信号所」である池袋に駅を設置することになったのだ(当時の鉄道は煤煙をまき散らす迷惑施設だった)。山手線の目白駅から田端駅へのルートが自然な円周状になっていないのは上述の経過を辿ったことによる。池袋は「東口に西武」があり「西口に東武」がある。東武鉄道が最初に西側に駅を作った。東武は東上鉄道を前身とする。この路線は東京と上州(群馬)を結ぶものだから駅は西側が自然だ。後発の西武(当時は武蔵野鉄道)は既に東上鉄道の駅があったので東に駅を造らざるを得なかった。当時、東武東上線は秩父セメントを東京に運ぶ「セメント鉄道」武蔵野鉄道は東京人のウンコを埼玉に運ぶ「糞尿(農業)鉄道」として認識されていた。
 池袋には「駅袋」という別称がある。池袋駅は巨大ターミナルで1日に約260万人もの人が乗降する。が、その多くはJRと私鉄の乗り換えに利用するか・駅に直結する百貨店などを利用するだけで、駅の外には出てこないと言われている。東武と西武の両百貨店は巨大であり相当の買物需要を満たしてしまう。が、それだけでは池袋の自由は享受できない。駅を出て街へ出よう。池袋駅東口の南側には三省堂書店とジュンク堂書店本店が向かい合うように並んでいる。1つだけでも凄いのに2つの巨大書店が両立できるところに池袋の書籍需要の大きさが表象される。読書は思考を自由にする。最近はネット上における書籍販売が盛んであり書店経営の厳しさが増しているが、本好きな人間にとってフロアに並んだ多数の本を眺めながら過ごす時間は至福である。書店で本を選ぶ楽しさは全く思いもしなかった本を偶然手に取り、それが自分の観念を変えてくれる奇跡的な出逢いに存在する。それが思考の自由の根底に存在するのだ。私たちの思考の自由を守るために是非とも良い書店がいつまでも繁栄していただくよう祈るばかりである。若者よ、リアル書店で本を買おう。ジュンク堂書店の裏には大手の予備校がある。私も大学に入る前に1年間の浪人をした。帰属先がない浪人時代は不安に満ちているが、後で振り返ればプラスになる。頑張ってくれ。
 北側に池袋南公園がある。長い時間を要した大規模区画整理によって創造された空間である。ホームレスが多かったといわれるこの公園には広い芝生の遊び場が設けられて多くの子供連れで賑わっている。ひと昔の池袋と同一とは思えない開放的な自由空間が形成されている。園内の北側に洒落たカフェがある。私は太陽が振り注ぐ椅子に腰掛けて美味しいコーヒーを頂いた。
 北に数分も歩くとサンシャインシティ。かつての「スガモプリズン」である。隣にある東池袋中央公園に「永久平和を願って」の碑が設置されている。この碑を巡っては政治的対立から紛争が生じ多くの人々のエネルギーが費やされた。GHQによる思想洗脳からの自由を主張する人・軍国主義に復帰させないために思想信条の自由を主張する人。自由の概念を反対にする多くの政治的立場による、多くの議論がなされた。かかる言論界の争いがなかったかの如く「永久平和を願って」の碑は公園の中で静かに佇んでいる。巣鴨拘置所には多くの政治犯(戦時体制において自由を主張し憲兵隊などから検挙された方々)が身柄を拘束されていた。戦後、政治犯は釈放され自由を謳歌できるようになった。他方、その戦時体制を率いていた政府高官が自由を制限され、極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告人として訴追された。「永久平和を願って」の碑はスガモプリズンの死刑執行場所(絞首台)にあたる。絞首刑を宣告された被告人たちにとってshineとは「死ね」という意味になったのだ(「東京裁判と歴史散歩」参照)。サンシャインシティの噴水広場は高校生のときに訪れた(1979年)。当時、東京に住んでいた従姉妹に連れてきてもらった。歌番組の収録が行われており、松崎しげるが定番「愛のメモリー」桑江知子が「私のハートはストップモーション」を歌った。プロの生歌を無料で聞けて田舎高校生の私は「東京は凄い所だ」と思ったのだった。サンシャイン水族館は普通の水族館だったが、リニューアルして話題になった。趣向が凝らされているが、なんといっても目玉は空飛ぶペンギン。彼らは鳥なのだと再認識させられる。ここでは水槽の中のペンギンですら自由であるように見える。「サンシャイン60」はサンシャインシティの中核施設。かつては日本一高いビルだった。派手な広告で名を広めたA法律事務所の拠点。同業者から観ると彼らは司法改革の理念をタテに自由を謳歌していると感じる。強制加入団体(弁護士会)規範からの自由を主張しているとも思わされる。違法でなければ何をやろうと自由なのかもしれないが「所属する若手弁護士たちが将来いかなる弁護士人生を歩むか?」に関して主宰者であるI氏には関心がないようにも見える。弁護士法人の業務停止を受けて放り出された若手がどうなろうと自由なのであろうか?
 サンシャイン通りを駅に戻る。サンシャイン通りは現代の池袋を代表する目抜き通りである。豊島区の資料による概算ではサンシャイン通りの歩行者流動量(午前7時~午後7時)は休日で約16万人。一方、池袋駅東口を出て東口五差路交差点から豊島区役所新庁舎へと向かうメインストリートであるグリーン大通りは休日でも約2万人の歩行者流動量でしかない。
 池袋駅に戻る。地下通路を通って西口公園に向かう。東京芸術劇場では2017年12月から2018年1月まで「池袋ウエストゲートパーク」(@石田衣良)を上演する。池袋には他にもシアターグリーン・サンシャイン劇場・池袋演芸場などが存在する。池袋は日本有数の祝祭空間なのだ。
 長年「バラック街・ヤミ市場」として著名であった西口公園。その前身は自由な教育を求めて形成された文教地区である。戦後ドサクサにまぎれ文教施設の跡地に形成された多数のバラック。それは統制経済のくびきから逃れようとする人々の自由への渇望が産み出したものだ。多くの芸術家は自分の自由なる感性を思い切り展開できる地として池袋を選んだ。池袋には各人の「自由」を求める古くからの伝統が今もなお息づいているのである。

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