歴史散歩 Vol.87

ちょっと寄り道(新宿)

 学生時代に中央線沿いに住んだ私にとって「都心」と言えば新宿でした。先日、次男と共に旅をする機会があったため、歌舞伎町を拠点に歩き回ってみました。
 (参考文献:「あの日の新宿」(武揚堂)、本庄慧一郞「新宿今昔ものがたり」(東京新聞)、戸沼幸市「新宿学」(紀伊國屋書店)、内田宗治「水が教えてくれる東京の微地形散歩」(実業之日本社)、田村圭介他「なぜ新宿駅は1日364万人もの人をさばけるのか」SB新書、「新宿歴史博物館展示図録・新宿の歴史と文化」、川副秀樹「東京の『年輪』発掘散歩」言視社)。

 羽田発の高速バスは新宿駅西口で停車した。宿泊するグレイスリーホテルは歌舞伎町にある。近距離なので徒歩で向かう。が、新宿駅は迷宮である。なにせ新宿と名の付く10の駅が形成するネットワーク(大新宿駅)は1日364万人もの人をさばいているのだ。私は「田舎人が地下通路に入ると迷子になる」気がしたので、大ガード付近の抜け道を通ることにした。淀橋浄水場跡に形成された高層ビル群を左目に見ながら歩く。西口地下は学生運動が盛んな頃フォークソングを歌う若者が集まった。昭和43年の新宿騒乱事件の後、西口「広場」は「通路」に変更された。西口は広場(パブリックフォーラム)ではなくなっているのである。「旧青梅街道」と記された標識がある。その先に「思い出横丁」という名の飲屋街が広がっている(ここは昔「しょんべん横丁」と呼ばれていた)。戦後のドサクサの中、テキ屋(安田組)が主導して形成した庶民向け飲食街の1つだ。
 抜け道を通り東口へ出る。目前に「スタジオアルタ」がある(旧・二幸)。「笑っていいとも」の収録場として著名なところである。この番組で31年半も司会をしたのがタモリさんだ。歌舞伎町に向かう。靖国通りから見通しが効く街路(ビスタ)が形成されている。視線正面にあるのがゴジラヘッド。これこそ私たちが宿泊する「グレイスリーホテル新宿」だ。多くの芸能人が憧れた「新宿コマ劇場」の跡地である。「歌舞伎町」という町名はこの地に「菊座」という歌舞伎劇場の開設が予定されていたことから命名された。この話はつぶれたが、町名だけは残った。代わりに建築されたのがコマ劇場だった(コマのように回る舞台を持つことから命名された)。2008年12月にコマ劇場は閉館し跡地に作られたのがこのホテルである。ホテルの下は東宝が運営するシネマコンプレックスになっている。映画の都が「シネコン」に成り下がったように感じるのは私の偏見であろうか?
  ホテルで若干休んだ後、「ジャズスポットJ」に向かう。靖国通りを東に歩く。20分弱歩いて成覚寺(江戸時代の遊女の投込寺)の斜め前を過ぎたところに店はあった。新宿はジャズ喫茶ジャズバーが多い。権威を嫌い自由を主張する精神が新宿の空気に合っているのであろう。この日は宮崎勝央さんを中心とする4名の出演だ。宮崎さんが出身地を含めてメンバーを紹介してくれた。アルトサックス(熊本)ピアノ(多摩)ベース(島根)ドラム(山形)。田舎出身ミュージシャンが多い新宿に相応しい面子である。素晴らしい2回のステージを堪能した。帰り際にマスター(バードマン幸田さん)と雑談する。私と次男が遠路福岡から来たことをとても喜んでくれた。来店の記念品として「株式会社ノースウエストエンタープライズ取締役宣伝部長森田一義」の名刺をいただく。この店の運営にはタモリさんが関わっているのだった。新宿とタモリさんの関係性は深いものなのだ。帰路は花園神社とゴールデン街のワキを通る。夜10時を過ぎている上に現役の高校生も一緒なので、ここの歴史散歩は最終日の朝に回すことにした。
 
 2日目は西武新宿駅から高田馬場へ。早大正門行バスに乗車して早稲田大学に到着。「新宿を極めるためにワセダを感じておきたい」。正門と大隈講堂付近を徘徊して大学の見学を終わる。
 タクシーで「新宿歴史博物館」へ向かう。歴史博物館は今の感覚では四谷にある。四谷大木戸を抜けると既に内藤新宿。新宿御苑(信州高遠藩内藤氏下屋敷跡)北側は広大な宿場だった。通常展示コーナーに入ると江戸時代の内藤新宿を表現したジオラマがある。内藤新宿のコンセプトを得るのに最適だ。戦国時代、平城の防御力は周辺の低湿地に依拠していた。が周囲が全て低湿地だと物資搬入に困る。そのため平城は完全な平坦地ではなく「馬の背」状の補給路を持つのが通常である。江戸の場合、それは甲州街道であった。半蔵門から四谷を通り、武蔵国の中心だった多摩(府中・国分寺)を経由し、直轄地・甲府に抜ける街道が最重要な軍事的補給路であった。そのため幕府は街道沿いに重要家臣を置き外様の参勤交代を排除したのである(西国雄藩の進軍が予想される東海道を徹底して低湿地を通らせたことと対照的)。本来、甲州街道の第1宿は高井戸であった。が若干遠いのでその前に「新しい宿場」を設けることになり内藤氏屋敷北に形成されたのが内藤新宿である。この博物館には江戸の町に配された玉川上水を引く木樋が展示されている。玉川上水は承応年間(1652-1655)、羽村から四谷大木戸までの約43キロメートルに開削された。落差は約100メートル。水位を落とさず四谷まで開削できたことが広く江戸の町に上水を供給することを可能にした。途中には立川面から武蔵野面に「上がる」箇所があるが驚異的な測量技術で克服している(坂田恵一「玉川上水武蔵野ふしぎ散歩」農文協)。四谷が配水口とされたのは四谷が江戸の最高地点だったからである(後に新宿西口に淀橋浄水場が設けられたのも同趣旨)。江戸の発展は玉川上水なしにはあり得ない。四谷が配水口とされたのは四谷が江戸の最高地点だったからである。
 新宿歴史博物館を出て甲州街道に戻る。歩いて行くと右手に太宗寺がある。江戸六地蔵の1つが存在する。太宗寺には閻魔大王も祀られており、江戸のウチとソトを分ける結界であることを旅人に強く意識させる構造になっていた。地蔵菩薩は閻魔大王の仮の姿であり、六道の監視役として旅人に感じられていた。太宗寺に特有なのは「奪衣婆」に大きな比重が置かれているところである。旅人の金品をはぎ取る老獪な女性の遺伝子は現代の歌舞伎町に引き継がれているのかも。
 新宿二丁目には赤線があった。現在、二丁目の風俗街は激減。かつての二丁目旧赤線の建物は多くが取り壊され、別業種(ゲイバー等)に用途変更されていると聞く。更に歩くと新宿三丁目の追分。伊勢丹など巨大店舗が林立している。甲州街道はここから左折し、青梅街道は直進していた。甲州街道が曲がっていたのは軍事的観点による。新宿の「赤線」は二丁目にあったが「遊郭」はどこにあったのか?伊勢丹本館の東側・地下鉄新宿三丁目駅の上である。現在この周辺に遊郭の痕跡は全く無い(三橋順子「新宿・性なる街の歴史地理」朝日新聞出版を参照)。新宿が「性なる街」となったのは、甲州街道から外様の参勤交代が排除されていたため宿場の売上が少なく、経営者が代償として男性客を呼び込める商売を始めたところ公儀(幕府)もこれを黙認せざるを得なかったからである。
 新宿駅は明治18(1885)年に宿場の西の外れに開設された。当時の鉄道は煤煙を撒き散らす迷惑施設だったので人気の少ないところに創らざるを得なかった。利用する乗降客はほとんどいなかった。なぜなら当時の新宿駅は、生糸を横浜に運ぶために山手線の前身である日本鉄道(品川・赤羽線)がバイパスとして新宿付近を通ったことから出来た、物資輸送のインフラに過ぎなかったからだ。周辺の旧地名は角筈(つのはず)。新宿三丁目先から西新宿に至る広大な土地。何もなかったので鉄道関係者はこの場所に広大な駅の敷地を確保できたのだ。
 新宿が巨大ターミナルへの道を踏み出したのは明治22(1889)年に新宿と立川を結ぶ甲武鉄道が開業したことによる。以後駅舎が拡大され明治39(1906)年の拡張工事で追分への最寄口駅舎が創られた。これが現在の南口(甲州街道口)だ。同年、日本鉄道(現・山手線)と甲武鉄道(現・中央線)が国有化された。新宿が大ターミナル駅たる地位を確立したのは関東大震災後だ。郊外へ路線網を拡大していた私鉄各社は都心に向かう利用者の便をはかるために山手線を超えて都心と直通することを目指し出願していた。が、独占的に市電路線網を形成してきた東京市電気局が山手線内への他交通機関の乗り入れに強硬に反対した。そのため私鉄各社は直に山手線内に乗り入れることができなくなり、山手線との接続駅に基点を置かざるを得なくなったのである。
 昼食は「新宿中村屋」の名物「インドカレー」を食する。中村屋は「紀伊國屋書店」「高野フルーツパーラー」と並ぶ新宿の老舗中の老舗。「インド独立の闘士・ボース」に深い縁がある(詳細は中島岳志「中村屋のボース」白水社を参照)。紀ノ国屋ホール(昭和39年)は俳優座・劇団民藝・文学座など新劇系劇団の公演の場となり、後につかこうへい・野田秀樹・三谷幸喜といった代表的演劇人を生み出していった。新宿の演劇人には反骨精神がある。
 ホテルで若干休んだ後、夜は「末廣亭」で寄席を拝聴。「林家たけ平」の真打昇進・披露興行が行われるとあって多くの客が詰めかけていた。午後5時から9時まで3000円。決して安くはないが、4時間(中入りを含む)も磨きぬかれた芸を間近で堪能できるのである。多くの方にご贔屓にしていただきたいと願う。芸人の街・新宿の面影を残す大切な宝物だから。末廣亭の終演後、次男とともに近くの居酒屋で夕食をとる。この付近は3階建の木造建物が多い。当時は青線営業をしていた者も少なからずいたようである。雨が降ってきた。地下道を通ってホテルに帰る。

 3日目の朝だ。次男は未だ寝ている。私は1人ホテル近辺を散歩する。歌舞伎町をゆっくり散歩するのは朝にかぎる。午前8時過ぎをおすすめする。早朝はダメだ。歌舞伎町の早朝は危険性を含んだ独特の<夜の新宿の気配>が未だ濃厚に残っているからである。ホテルが所在するコマ劇場跡地のウラには曲がった街路がある。蟹川の残骸である。この街路が歌舞伎町1丁目と2丁目の境界を形成している。靖国通りから見通すと北側は道がゆるやかに下がっていることが判る。歌舞伎町は低湿地に形成された街なのだ。区役所通りに出る。新宿区役所近くは性風俗産業のメッカである。お役所の近くに無数の性風俗産業が乱立しているのは新宿歌舞伎町だけであろう。
 私は5月に福岡で美輪明宏主演「毛皮のマリー」を観劇するチケットを取っている。花咲ける40歳の男娼(おかま)を主人公にした寺山修司の代表作だ。美輪明宏さん以外は上演不可能な作品だと感じる。本来、この作品は新宿で観劇すべきものであろう。タモリや寺山修司を始め新宿は早稲田出身文化人の影響が強い。これら文化人の多くは早稲田を中途退学や除籍になった者である。早稲田出身文化人にとり「卒業」はブランドではない。権威を笑い飛ばす新宿の空気を身に付けたことが早稲田出身者のブランドになるのだ。自分の大学をも相対的に見るクールな視線は、息苦しい日本を虚心に見つめ直し、漂う閉塞感を吹き飛ばす契機を有していると私は感じる。停滞した日本社会にブレークスルーを導くために私はもっと「新宿的なもの」「ワセダ的なもの」が必要とされていると思う。
 「四季の道」と称される小道を歩く。都電の路線跡であるが、古くは蟹川の支流である。右は新宿ゴールデン街。焼け跡バラックの空気を感じさせる貴重な飲み屋街である。ここを抜けると花園神社。芸能人の信仰が厚いところだ。境内は昭和42年に唐十郎率いる劇団「状況劇場」がアングラ演劇を展開したことで知られる。右に芸能浅間神社があり藤圭子さんが歌った「圭子の夢は夜開く」の碑がある。藤圭子さん(宇多田ヒカルさんの実母)が突然亡くなって間がない。私が子供の頃、藤さんは未だ現役で歌っておられた。怨念を感じさせる独特の存在感を放っておられた大スターだった。悲しい最期だったと聞く。碑の前で合掌。花園神社中央に威徳稲荷がある。鳥居の上部に男根がある。社務所では陰陽を象徴する夫婦和合のお守りを求めることも出来る。
 グレイスリーホテルに戻ると次男は起きていた。チェックアウトして歌舞伎町を発つ。ホテルを振り返ってゴジラヘッドを見つめる。私は次回作のゴジラ映画に於いて「生きたゴジラがグレイスリーホテルを破壊する映像」をイメージしていた。アルタ前の地下通路を通る。江戸時代の旅人気分で旧青梅街道を抜け新宿駅西口に戻った。地下街に入ってJR入口を見つけた。駅の中で迷子になることはなかった。「迷宮として畏れていた新宿駅」は私の中で「親しい新宿駅」に変わっていた。(終)

* 新宿駅は1885年に創られました。着工はどんなに早くても1884年です。サグラダファミリアの着工と重なります。新宿駅は今も増殖を続けています。2016年4月、新宿駅に「バスタ」が開業しました。ここに乗り入れる運行業者は118社にのぼり39都府県と新宿を結んでいます。ピーク時の発着便数は1日1625本という信じられない数字です。全体設計図が存在しない新宿駅が「これで完成」と宣言されることはおそらく無いのでしょう。
* タモリさんを論じた文献は多数あります。近藤正高「タモリと戦後ニッポン」(講談社現代新書)をお勧めします。「自分をも相対的に見るクールな視線」はタモリという天才芸人の本質です。タモリさんこそ「新宿的なもの」「ワセダ的なもの」を一身に体現している稀有な方なのです。
* 2016年5月17日、私は福岡市民会館で「毛皮のマリー」を観劇することができました。この時代に寺山修司の名作演劇を味わえるのは幸福なことです。

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