歴史散歩 Vol.143

ちょっと寄り道(仙台2)

 仙台の2日目は公共交通機関を使って市周辺部を広範囲に廻りました。当初の予定と全く違う廻り方になりましたが、結果としては良い散歩になったと思います。
(参考文献)西村幸夫「県都物語」有斐閣、平岡昭利編「地図で読む100年東北」古今書店、「図集日本都市史」東京大学出版会、NHK「ブラタモリ№3」(角川書店)、「忘れかけの街・仙台」「仙台藩ものがたり」河北新報出版センター、松尾芭蕉「おくの細道」角川ソフィア文庫、十菱駿武他「しらべる戦争遺跡の事典」柏書房、司馬遼太郎「街道をゆくNo.26」朝日文庫、仙台市歴史民俗資料館「常設展示図録」、東北歴史博物館「展示案内」など。

 早めの朝食をとり「ドーミーイン広瀬通り」を出発する。昨日に引き続き生憎の雨だ。駅のスタバに入り今日の予定を練る。仙台2日目は長距離散歩を予定していた。JR仙山線で国見駅まで行き、近くの浄水場を見学して仙台市上水道についてウンチクを語り、そこから大崎八幡宮を参拝、東北大学病院前(北4番丁)を歩いて東照宮辺りで昼食をとり、午後は榴ヶ岡・楽天スタジアム・薬師堂・刑務所(若林城跡)まで歩くつもりであった。相当の距離を歩く予定だった。しかし朝から結構な雨なので長距離散歩は止めにした。今日1日だけなら雨中を歩いても良いのだが、この先3日間の旅がある。無理はしないほうが良い。ゆえに私はJR仙台駅を「ハブ」として(公共交通機関を駆使して)複数の目標に順次向かうことにした。

 まず仙台駅前ペデストリアンデッキ下のバス乗り場で仙台観光バス「るーぷる」の1日乗車券(地下鉄との共通チケット)を購入。920円。午前9時、最初の便が乗り場に到着した。左列1番前の特等席を確保。バスは青葉通りを西に向かい左折。裁判所の建物を廻るようにして片平丁を南東に向かう。昨日歩いた米ヶ袋を下り霊屋橋を渡る。
 「瑞鳳殿前」に到着。伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿は桃山風の建物である。昭和6年に国宝に指定されたが昭和20年の戦災(アメリカ軍による空爆)によって焼失している。現在の建物は昭和54年に再建されたものである。ここで乗客の多くが下車した。多くの観光客はこうして各スポットを巡るのであろう。このバスの最も正しい利用法だ。しかしながら、この伊達家「霊屋(おたまや)」は「経ヶ峯」という丘の上にある。急な坂と約100段の階段を昇る必要がある。時間設定と体力の温存を考えて「瑞鳳殿前」はパスし乗り続けることにした。
 バスは広瀬川を渡って直進し、大手町を左折して再度広瀬川にかかる大橋を渡る。この大橋は仙台城と城下町を繋ぐ重要な橋であった。仙台城領域に入る。別名「青葉城」。伊達政宗が岩出山から移って築城したものだ。とは言え、この城は「ゼロ」から築城されたものではない。前の国人領主:国分(こくぶん)氏の居城「千代(せんだい)」城を改修し「仙台」城と改めたものである。「仙台」という現代に繋がる名は(信長の岐阜と同様に)中国古代の帝都の名前に由来するものらしい。国際センター前を過ぎると左折して(最短距離で)本丸跡に向かうのが本来のバスルートである。ところが今回は「バスが直行できない事情」があった。2011年の東日本大震災により仙台城の石垣・脇櫓(隅櫓)の一部が崩壊した。その復旧は完了していた。しかし本年(2022年)3月16日の地震により再び石垣が崩れたのである。そのためにバスは博物館前を通る直近ルートではなく東北大学キャンパス内を迂回するルートをとることになったのだ。バスは東北大学の理工系学舎がある川内キャンパス(二ノ丸跡)を大きく周回する。大学キャンパスを観たかった私にとっては御褒美だ。迂回ルートを通ることによって私は仙台城の全体的な雰囲気も良く理解することができた。
 もう少し仙台城について考えよう。仙台城は「関ヶ原」中に計画され築城が推進された唯一の城である。仙台城に天守閣は造られなかった。城下町の主たる東西軸は大町通。その視線の先に仙台城の大手門が存在する(「図集日本都市史」175頁)。仙台城においては遠見遮断などの防衛上の配慮は非常に薄い(@西村)。中世風「山城」と河岸段丘沿いに開かれた「城下町」がこれだけ隔絶している街は珍しい。本丸と城下町の標高差は約60メートルもある。他の近世都市では考えられない高低差である。防御の要たる広瀬川は現在よりも蛇行し城寄りを流れていた。ゆえに東と南の防御は鉄壁だった。西は峻厳な山である。しかしながら北が比較的に弱い。そこで伊達政宗は城北側に堅固な石垣を築いた。政宗の治世時はこれだけであった。城北に二ノ丸・三ノ丸が造営されたのは江戸幕府が盤石となり「天下泰平」が実現した後のことである。既に政宗は死去していた。天下取りを考える意味などない。むしろ仙台藩は江戸幕府から「謀反」を疑われ取り潰しの危険すらあったのだ。そのため3代将軍家光時代に「東照宮」が江戸幕府への忠誠を意識して構築されている。
 三ノ丸跡に建設されたのが「仙台市博物館」。震災の影響で休館中だった。この博物館は伊達家から寄贈された様々な資料の保管・展示・研究のため昭和36年に開設された。休館中なので今回は収蔵品を観ることができない。しかしながら本年10月9日から福岡市博物館で「仙台市博物館特別展」が開催される運びになっている。たぶん私は運が良い。
 「仙台城本丸跡」で数名の乗客がバスを下車したが、そのまま乗り続けた。

「るーぷる」バスは東北大学理学系キャンパスを通り、元来た道に合流した。道を下って国際センターを左折し、更に左折して広瀬川沿いに北上して牛越橋を渡る。この付近には交通公園と三居沢水力発電所がある。とても興味深いのだが、時間の関係で割愛。
 河岸段丘を駆け上がった先が「大崎八幡宮」である。ここでバスを下車。大崎八幡宮の最初の見どころは「四ツ谷用水」だ。太鼓橋下をかすかに水が流れているのが見える。今は弱い流れに過ぎないが、江戸時代はこの用水こそが仙台城下町を潤したのである。この用水路開設は北上川河川改修に携わった川村孫兵衛の指揮による。川村は元々は長州藩毛利家に仕えていた者だが、関ヶ原敗戦で浪人になったところを伊達政宗にヘッドハンティングされて召し抱えられるようになったそうだ(川村孫兵衛は「石巻」で再度触れることになる)。政宗は幕府の治世が安定してから(他のどの大名より)模範的な大名であろうとした。積極的に参勤に務め徳川家から安堵された領国の経済的発展に力を入れた。貞山堀と呼ばれる運河を整備するとともに北上川水系を開拓し、仙台平野を現代にまで続く穀倉地帯とした。さらに上方の文化を積極的に導入して(文化人をスカウトして)北国文化に桃山様式を加える独特な文化を生み出した。その成果が瑞巌寺・塩竃神社・薬師堂(陸奥国分寺)そして大崎八幡宮なのだ。秀吉が好んだ桃山様式を徳川家康は好まなかった。世間は秀吉好みを否定することで家康に迎合した。が、政宗は堂々と桃山建築を受け継ぎ、存在を主張した。
 大崎八幡は「仙台総鎮守」。慶長12(1607)年の創建。桃山文化を今に伝える建築物だ。昭和27年国宝に指定された本殿は秀麗。大崎とは足利尊氏が室町幕府を開いた際に「奥州探題」にされた一族の名前である。それが権威のある地名になっていた。政宗はこれを仙台鎮守の名に冠した。伊達家は藤原の出自であるから、本来の氏神は春日権現である(2021年1月4日「奈良2」参照)。政宗は「八幡大菩薩」が武家の守護神として定着していたので岩出山から移したのであろう。
 再び「るーぷる」に乗る。北四番丁を東進。東北大学医学部付属病院先を右折。昔、市民会館前の通りは常盤丁と言った。明治時代初期は遊郭の街だった。明治27年「遊郭街が第2師団と川を隔てて向かい合うのは良くない」という理由から日清戦争を機に(後述する)小田原遊郭に移されたのだ。左折しメディアテークを通り過ぎる。「定禅寺通り」にけやきの巨木が連なる。現代版「杜の都」を感じさせる街並みだ。仙台市戦後復興計画の素晴らしさを実感する。
 「るーぷる」は東二番丁を南下し広瀬通りを通って仙台駅に無事に帰還した。

 次なる目標は「歴史民俗資料館」である。駅地下に潜ってJR仙石線に乗る。仙石線の前身は宮城電気鉄道である。大正14年6月、仙台駅から西塩釜駅までの区間で開業した。昭和3年4月に陸前小野、11月に石巻駅まで開通した。昭和19年に国有化、仙石線になり現在に至る。宮城電気軌道仙台駅は、鉄道省線の東北本線と交差させるために、当初から地下駅として設置された。そのため仙台駅に至る数百メートルも地下の路線になっている。この区間開業は日本初の地下鉄とされる「東京地下鉄道」(銀座線)より2年半も早いものであった。
 「榴ヶ岡(つつじがおか)」駅で降車。駅反対側に資料館がある。榴ヶ岡公園は高台になっていて結構な高低差がある。この公園を半周する形で歩き私は資料館に到着した。
 この建物は長い歴史を有する。1871年、明治政府は東京鎮台・大阪鎮台・鎮西鎮台・東北鎮台を設置。1873年、徴兵令の施行後、東北鎮台は仙台鎮台となり、東北6県からの徴兵訓練が旧仙台城から榴ヶ岡の新兵舎に移った。これが資料館の建物である。1888年仙台鎮台は第二師団となり、付近には騎兵連隊・宮城野原操練場・飛行場・陸軍病院・幼年学校などの軍事施設が集中した。旧仙台城周辺にあった工兵大隊などとともに軍都仙台の中心となった。 敗戦後、第二師団歩兵第四連隊の敷地と兵舎はアメリカ軍のキャンプとなり、1956年まで使用される。返還後は警察学校として使用された。その移転後、仙台市に移管され榴ヶ岡公園として整備されることになった。この建物は明治7(1874)年に建築された兵舎(宮城県最古の木造兵舎)だが、明治37年頃外観で移築復元されている(移築は曳家で行われた)。1979年に歴史民俗資料館となり戦前の軍や市民生活を示す展示が為されている。受付の方としばし雑談をする。私が遠路九州から来ていることを告げると喜ばれた。更に私が「この建物は久留米の自衛隊駐屯地内にある史料館と似ている」と指摘したらビックリされた。資料館では書籍の他に仙台市の古地図が販売されている。古地図が好きな私は大量に購入した(延宝9年・明治13年・大正14年・大正15年・昭和4年・昭和8年・昭和22年・昭和26年・昭和27年)。眺めるだけで「仙台市の移り変わり」を良く認識することができる。
 歩いて榴ヶ岡駅に帰還する。辺りは東北楽天を応援するフラッグがいっぱいである。直ぐ南に東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地「楽天生命パーク宮城」があるからだ。私はプロ野球に関心が強い人間ではない。しかし幼い頃の記憶は「西鉄ライオンズ」なので「パリーグ」を応援したい気持ちが強い。東京圏・大阪圏に偏って存在しているプロ球団に対抗する地方球団の仲間として、東北楽天には是非とも頑張ってほしい。

 ここで少しばかり脇道にそれ「仙台東側領域の特徴」について考えてみよう。
 仙台駅の東側の街並みは城下町側と約30度角度がずれている。ブラタモリは「副都心」という表現をしている(No.3の128頁以下)。私は(本来の予定では)榴ヶ岡・薬師堂・古城(刑務所)と歩く予定であった。このラインは仙台市街の河岸段丘と様子が違う。榴ヶ岡が典型であるが周囲より高い。この高低差に秘密があるようだ。柴田尚・太田久昭「生活用水からみた仙台城下の地形と地盤」(土木学会論文集G環境76・№3・36頁・2020)に次の指摘がある。仙台の河岸段丘は西北から東南にかけ傾斜する地形になっている・地下構造は上記地形にそって「れき層」が4~8メートル層厚で存在する・れき層下部にある岩盤が一部で凸状をなしている・この傾斜で地下水の流れを止める構造を形成している。すなわち仙台市街地下には巨大な「ダム構造」が存在するらしい。岩盤の凸部は榴ヶ岡・薬師堂・古城のラインにも存在するように思われる(地表凸部に合わせて考えれば)。そのため地下ダムに沿って豊富な湧水が得られたのであろう。この地下ダムの構造は京都盆地に近い(2017年4月3日「鴨東」参照)。豊富な井戸により飲み水に困らなかったからこそ仙台は現代に至るまで「住みやすい都市」として繁栄を続けてこられたのだと思う。
芭蕉が「おくの細道」で訪れたのは宮城野・玉田・横野・榴ヶ岡・薬師堂である。今日、私が訪れる予定のところと結構重なっている。少し芭蕉との縁を感じてしまう。

宮城野の萩茂り合ひて、秋の気色思いやらるる。玉田・横野・榴ヶ岡はあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木ノ下というとぞ。昔もかく露深ければこそ「みさぶらひ御笠」とは詠みたれ。薬師堂・天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。

 芭蕉にとって大事だったのは「宮城野の萩」だった。宮城野は古くから歌に詠まれ、特に秋の萩に特別な思いが込められてきた。能の「宮城野」では萩の精が表現されているようであり「植物から昇華して人間の文化になっている」。芭蕉が見たかったのは萩の精だが、季節が異なり(芭蕉が訪れたのは6月)見ることが出来ない。そのために芭蕉は「秋の気色思いやらるる」と秋のつもりで萩への思い入れを表現したようだ(司馬180頁)。引用されている古歌は「みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木ノ下 露は雨にまされり」(古今和歌集:東歌);(現代語訳・お供の方よ、ご主人に笠をかぶるように申し上げなさい。宮城野の木の枝からしたたる露は雨よりもスゴイから。)である。この古歌を私が傘をさしながら口ずさむことになろうとは思わなかった。ちなみに榴ヶ岡は江戸時代に「花見の名所」としても賑わっていたところである。阿部次郎コレクションには「榴ヶ岡花見図屏風」が伝わっている(東北歴史博物館図録67頁)。

 仙石線にて榴ヶ岡駅から仙台駅に帰還する。次の目標は「陸奥国分寺跡」である。共通乗車券を使って地下鉄東西線「薬師堂」で下車。地上に出て西に歩くと国分寺遺跡に至る。まず資料館を訪れた。陸奥国分寺の意義について詳細な説明が為されている。陸奥国分寺の建物(伽藍)配置の特徴は、塔が中門と金堂をつなぐ中央部の回廊の外側に位置することであるらしい。建物配置に次の3つの特徴がある。a伽藍の南辺中央に南大門がある、b中央部回廊の構造が礎石式の複廊である、c塔を廻廊で区画して塔院を形成している。これらの特徴を共通するのは総国分寺:東大寺である。東大寺建設は大仏建立とともに天平17(745)年に(聖武天皇が平城京に戻ってから)始まったとされる。なので識者は「陸奥国分寺の建設も同時期に開始されたのではないか」と考えておられる。よく判らないのは「国府」と「国分寺」の位置関係だ。古代の律令体制において国府と国分寺はセットで考えられており、比較的近い位置にあるのが通常だが、陸奥国府が置かれた多賀城と陸奥国分寺は極めて遠い(約9・5㎞)。説明板をみても理由は判らなかった。ボランティアガイド岩淵隆是氏の計らいで資料を頂く。岩淵さんは「陸奥国分寺薬師堂ボランティアガイド会」の会長さんである。伽藍を一緒に回りながらレクチャーを受けた(恐縮)。贅沢な時間。私は運が良い。陸奥国分寺はいったん廃れるものの藤原秀衡により修復が行われた。しかし文治5年(1189)源頼朝による奥州侵攻の際に兵火で再度焼失している。その後、前述のとおり、伊達政宗が本堂を建てて再興したものである。この本堂は本尊「薬師如来」に因んで「薬師堂」と通称されている。芭蕉は再興されたこの薬師堂を道中で参拝している。近くのネパール料理店で遅い昼食。

 再び地下鉄に乗り仙台駅に帰還。今度はJR仙山線に乗り「東照宮」駅で下車した。まず別当寺「仙岳院」を訪れる。神仏習合時代は一体であったが、明治の神仏分離で独立している。静かな佇まいが気持ち良い。外様の伊達家にとって徳川家康を神格化する「東照宮」を立派に造営することは藩の生き残りのため不可欠の作業であった。何故なら若き日の政宗は謀反を疑われていたからである。そのため東照宮は北から南を見下ろす高台に設けられ、その門前町が大規模に作られている。東照宮の祭礼は出し物が有名な仙台藩最大の祭りだったが、天明飢饉の影響で天明3年から寛政2年まで中止されている。当時は現代のコロナ禍に近い状態だったのかもと思いをはせる。東照宮は徳川好みの渋い造りかと思いきや(日光東照宮を意識した)かなり派手な感じのする本殿であった。
 仙台は北部両側(西が大崎八幡:豊臣・東が東照宮:徳川)に南を見下ろす神社が大規模に造営されている。「東西の覇権者交代」を表象して興味深い。
 雨が上がった。当初の散歩計画を復活してJR仙台駅付近まで宮前商店街を歩いて戻ることにした。小田原6丁目に入る。東に1本入ったところが「小田原遊郭」跡。現在その痕跡は無い。ただし北側からエリアに入ると特徴的な斜めのラインがある。吉原遊郭の五十間道と同じような趣旨ではなかろうか(横須賀の柏木田遊郭跡も同様のラインが存在した)。ここは明治27年に常磐町から遊郭が移されて出来たところであり「新常盤町」とも呼ばれた。売春防止法が施行されてから「旅籠町」と改名され旅館などに代わった。これらの旅館には県内からの修学旅行の小中学生などが良く泊まっていたという。今、その旅館街の面影もない。

 けっこうな距離を歩いてホテルに帰還する。シャワーを浴び一休み。近くにある居酒屋「三七三」で1人飲みの夕食。クラフトビールが美味い。牛タンを満喫。「ドーミーイン」に戻る前に昨日衝撃を受けた薬局前で再度「仙台空襲中心地」を示すモニュメントを拝見した。
 ホテルに帰還。今日は事前に立てていた予定と大幅に違ったルートをたどることになったが、結果としては正解であった。仙台で購入した書籍・地図・使い古した服などを段ボールに詰めて宅配便で久留米に送る。明日から荷物が軽くなる、そう思いながら寝ようとした。
 ふと気になってスマートフォンを手に取ると昨日飲み会をした友からメールが入っていた。    「松島に緊急安全確保の警報が出ているみたいです。ご注意を。」
 メールにYahoo!ニュースサイトがリンクされていた。「東北地方の太平洋側で記録的な大雨となっています。」それが何を意味するのか、私は良く判っていなかった。(続)

前の記事

ちょっと寄り道(仙台1)

次の記事

ちょっと寄り道(多賀城松島)