歴史散歩 Vol.142

ちょっと寄り道(仙台1)

7月の連休を利用して仙台・多賀城・松島・石巻をめぐる旅(4泊5日)を企画しました。第1回目は仙台の1日目です。市内の中心部をじっくり廻りました。
(参考文献) 松尾芭蕉「おくのほそ道」角川ソフィア文庫、西村幸夫「県都物語」有斐閣、平岡昭利「地図で読む100年東北」古今書店、NHK「ブラタモリ№3」角川書店、小林清治「伊達政宗の研究」吉川弘文館、菅野正道「伊達の国の物語」プレスアート、野村俊一「学都仙台の近代高等教育機関とその建築」東北大学出版会、「歴史の中の東北大学」東北大学史料館、司馬遼太郎「街道をゆくNo.26」朝日文庫、仙台空襲研究会「翼下の記憶」ほか。

福岡空港を飛び立った日本航空353便は約1時間半後に太平洋上に出た。東から仙台空港滑走路に向けて高度を下げる。海が近くなった。静かな海。この静かな海が11年前に巨大な黒い壁となり東北の海岸を襲ったとは実感できない。が私の脳裏には津波に襲われた仙台空港で多くの航空機や自動車が流されていく映像が焼き付いている。飛行機は予定どおり10時45分仙台空港へ着陸した。デッキを渡ると直ぐにJRの空港アクセス線。列車は名取市を通り抜け、仙台駅に到着した。観光案内所で地図を入手し、歩いて宿に向かう。仙台の宿は「ドーミーイン広瀬通り」。中心部に近い上に安くて大浴場付きなのが選択の理由である(ただし「大」浴場というほど広くはない)。フロントに荷物を預け出発する。芭蕉の「おくの細道」を意識した歴史散歩にするつもりなので提唱する。

月日は百台の過客にして、行き交う人もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎える者は日々旅にして旅を栖(すみか)とす。故人も多く旅に死せるあり。

今回の旅路で私が死ぬことはおそらく無いであろうが、それ位の気概で歩こう。

ホテル近くにある地下鉄広瀬通駅から仙台市営地下鉄南北線に乗り「五橋」駅で下車。生憎の雨であるが、へこたれず傘をさして歩き始める。右に曲がると東北学院大学がある。ホームページによると東北学院大学の歩みは私塾「仙台神学校」の開設に遡る。1880年頃、開設者・押川方義は仙台を拠点にキリスト教の伝道を行っていた。押川はアメリカから来日した宣教師W・E・ホーイと出逢い、1886年、建学の精神を「キリスト教の信仰に基づく個人の尊重と人格の完成」として2人で「仙台神学校」を設立。翌年宣教師D・B・シュネーダーが加わり文化と福祉に貢献する人材の育成を目指した。仙台藩は江戸時代初期にローマ法皇に対し東回り(メキシコ・スペイン経由)で慶長使節(支倉常長)を派遣しているが、事後の禁教によって封印されている。ゆえに仙台のキリスト教は明治時代以降に流入してきたものであり、その主流はプロテスタントであった。野村俊一「学都仙台の近代高等教育機関とその建築」(東北大学出版会)によれば片平丁に学舎を作ったのは仙台神学校(後の東北学院大学)のほうが先行している。しかし同校は財政ひっ迫により明治30(1897)年に土地の一部を売却した。その土地を購入したのが宮城県である。
そのまま西へ歩くと米ヶ袋。仙台は広瀬川の河岸段丘に形成された街であるが、ここはその下段にあたる。江戸時代は鷹匠が住んでいたところだ。高級武士が住んでいた片平丁に東北帝国大学が設立されて以降、東北大学学生や教官が住む大学町として繁栄してきた。現在も多くの学生や教官が住んでいる。坂を下ると最下段(広瀬川の真横)に「縛り地蔵」がある。祠の中のお地蔵様が幾重にも縄で縛られている様子は異様だ。ここは江戸時代の処刑場の跡らしい(元禄3年まで・以降は七北田刑場に移された:泉区の八乙女駅の近く)。何故に縛られた地蔵様が祀られるようになったのか定かでないが(説明版に由来が書かれているが腑に落ちない)この縄は1年に1度だけ外されるそうだ。道を戻って左折すると「阿部次郎記念館」(旧日本文化研究所)がある。休館日のために拝見できなかった。阿部次郎は「三太郎の日記」の著者として名高い。この本は「大正教養主義」の象徴というべき書物である。大学生時代に私もチャレンジしたが挫折した苦い記憶がある。何故これほど難解な書物が当時流行ったのか判らない。旧制高校学徒は本当に理解して読んでいたのか?単なる知的ファッションだったのであろうか?(私らの時代の浅田彰「構造と力」の如く)。でも、この類の書物が広く読まれた時代は(理想主義の高揚した)幸せな時代だったのだろうと思う。

坂を登ってゆく。登り切った先に片平丁通りが横切っている。その先に旧「二高」正門址がある。立派なモニュメントが設置されている。二高とは旧制第二高等学校の略称だ。東京の一高に引き続いて仙台に2番目の旧制高等学校が開設されたところに仙台における高等教育機関の重要性が表象される。時の明治政府は(幕末戦乱で荒れ復興が急がれた京都と共に)仙台復興を特に重要課題と認識していたことが判る(ちなみに三高は京都に開設された)。西に歩くと旧「東北帝国大学」正門がある。片平キャンパスは東北大学発祥の地なのだ。「史料館」へ向かう。東北帝国大学は明治40年6月22日、東京・京都に続く帝国大学として開設された。6月22日は設立勅令が「官報」に掲載された日である。古来、中央権力から「蝦夷」として征服対象と認識され、戊辰戦争で「朝敵」として蹂躙された東北にとり国内3番目の帝国大学が仙台に設置された意義は大きい。仙台は福岡と似た立ち位置にある。帝国大学の名が「東北」「九州」という大きい枠組みで命名された点も共通する。片平キャンパス中央に魯迅(ペンネーム)の銅像がある。中国(清朝の末期)から医学生として留学していた周樹人(本名)がここ仙台において学んだのは明治37(1904)年9月から明治39(1906)年3月まで。東京で清国留学生社会に違和感を感じた彼は、他に留学生がいないとの理由で仙台医学専門学校を選んだ(「藤野先生」より)。今も昔も東北大学は世間の雑音から逃れ自己の思索を深める学びの場所なのだ。当時魯迅が学んだ階段教室も残されている(明治37年築)。

哲学徒であった私にとって東北大学はカール・レーヴィットが1936年末から1941年夏まで教鞭をとったことで感慨深い。主著「共同存在の現象学」(岩波文庫)は難解な本である。彼は師であるハイデガー「存在と時間」に対し批判的立場をとった。ハイデガーの独善的態度・時間認識における死の偏重・運命論的な民族共同性の強調。これらはナチス政権への親和性を示すものであった。当時の政治的状況へ迎合したのではなくハイデガー哲学が本質的に内包する属性なのであった。レーヴィットはこれを強く批判した。ハイデガーの「個」の分析は素晴らしいのに「社会」「国家」の話になるに従って誇大妄想的になるのは何故だろう?ちなみにハイデガーの判りやすい紹介に定評のあった木田元先生は「存在と時間」を学びたいと思い、東北大学文学部を目指して受験勉強を始めたそうだ。東北大を志望した理由は東北大が当時の国立大学で唯一傍系入学(旧制高校や大学予科以外からの入学)を認め、入学試験の外国語科目が2言語でなく1言語だったからだという。
 中学2年生時にアマチュア無線の資格をとった私にとって八木秀次教授の大学としても印象深い。八木教授は自分が開発したアンテナを「八木アンテナ」と命名して特許を取得している(1926年)。仙台には明治34年に仙台医学専門学校・39年に仙台高等工業学校など「理科系を重視した教育機関」が設置されていた。明治44年には東北大学に数学科・物理学科・化学科・地質学科が設置されている。このような理科系重視の伝統下に長岡半太郎(原子構造)本多光太郎(KS鋼)西沢潤一(光ファイバー)などの独創的な科学者たちが多数輩出されてきた。
昭和20年の敗戦後、東北大学はキャンパスを大きく変遷させた。陸軍師団が展開されていた施設撤去後「二の丸」跡(川内地区)は米軍キャンプが設置されていた。この地が昭和33(1958)年に日本政府に返還されると、富沢・北七番丁地区にあった教養部が統合移転する。陸軍の中心的な場所だったところが「学問の中心的な場所」に変貌したのは感慨深い。その後、1960年代半ばから総合移転整備計画が本格化し青葉山地区へのキャンパス移転が進んだ。もっとも東北大学「法科大学院」は片平キャンパス内にある。実務法曹の学びの場である法科大学院が法曹三者が存在する片平丁の「地の利」を優先するのは至極当然と言えよう。
北門から市街地側に出る。北門には門がない。街との連続性を感じさせる意匠だ。当然ながら昔は門があった。この風景は片平キャンパス改造計画の中で実現された。「開かれた空間」として良い感じを受ける。隣接して「北門会館」がある。中に生協が入っている。食堂で昼食をとろうと思ったが、時間外だったので断念した。生協売店にて東北大学の歴史に関連する書籍を若干購入する。

片平キャンパスを抜け、通りを北に歩いたところにラーメン店「水原製麺」があった。渋い店構えだったので中に入る。コシのある麺とあっさりしたスープが良い感じだ。美味い。この辺りは学生街として賑わった所であるが多くのメインキャンパスが片平から無くなり「らしさ」が失われつつある。「サンモール一番町」に入る前に南町通りを眺める。北西から南東に向かってゆるやかに傾斜している仙台の街の感じを良く認識することができる地点だ。アーケードに入って直ぐ右側にある老舗書店「金港堂書店」で地元ならではの書籍を若干購入した。真っ直ぐ北にアーケード街「サンモール一番町」を歩くと右にもアーケードが広がる(マープルロードおおまち)。現在の仙台市における商業の中心と言える。ここに老舗の百貨店「藤崎」がある。4隅のうち3隅は藤崎関連の建物。仙台に限らず、日本の多くの市街において(明治以降・昭和まで)街の一番の目抜き通りに店舗を構えるのが「百貨店」という業態だった。しかしながら、この業態は(街郊外に広い駐車場を備えた大型ショッピングモールが展開される現代社会の中で)危機に陥っている(2020年3月18日「久留米におけるデパートの盛衰」参照)。仙台の老舗百貨店「藤崎」がこの先も末永く繁栄されることを願う。100メートルほど西に向かう。何ということは無い普通の交差点であるが、江戸時代はこの交差点こそ城下町仙台の中心であった。「芭蕉の辻」という。信号機にその名が明記されている他、角に由来を記した碑が設置されている。仙台は慶長5(1600)年12月に縄張りが開始された完全な計画都市である。城の大手門から繋がる東西の幹線道路として「大町通り」が、これと直交する形で南北の幹線道路「奥州街道」が、整備された。これを基軸に城下の侍屋敷や寺社の位置が厳格に決められている。かような高札が挙げられた地は他市で「札の辻」と呼ばれるが、仙台においては何故か「芭蕉の辻」とされる。その由来については諸説がある。①芭蕉という名の虚無僧(伊達政宗の間諜として働き恩賞として辻の四隅の建物を授かった)が住んでいたという説(封内山海名蹟記)や②芭蕉の樹が植えられていたという説(封内風土記)等がある。松尾芭蕉とは全く関係がない。

伊達政宗の課題は堅固と繁盛を両立させることだった(戦国時代の気分と江戸時代の気分を兼ね備えること)。伊達政宗は遅れてきた戦国武将である。秀吉・家康には従ったものの天下取りの気分を捨てた訳ではなかった。そのため岩出山から移ってきた仙台城(千代城から改名)は実戦を意識し山城的構造を残している。他方、伊達政宗は商品流通が盛んになった時代状況をも意識しており商業地の「繁盛」を優先した街作りを目指していた(国際的な商売繁盛さえ意識していたのだから恐れ入る)。そのため政宗は東北の主要道である奥州街道を街中に引き込んだ。街の中心は商業地であり、商家を取り囲むように(守るように)武家地が広がっている。このような構成の城下街は珍しい。「通常ならば城を守るように武家地を配し、その外側に街道を迂回させながら回すものだが仙台にはそうした意図はみじんも感じられない」(@西村幸夫41頁)。芭蕉の辻から北に向かう繁華街の名は国分(こくぶん)町という。旧領主の名を残しているところが粋だ。仙台は武士領域を「丁」(ちょう)と呼び、町人領域は「町」(まち)と読む。国分町は町人の領域であるから「こくぶんまち」と発音するのが本来は正しいようだ(地元民は「こっぽんまち」と発音したとの記載がある:「忘れかけの街仙台」河北新報出版センター14頁)。

芭蕉の辻を西北に歩くと「仙台戦災復興記念館」がある。現在休館中であり、拝見できなかった。楽しみにしていたので残念である。「戦災都市としての仙台」は広く認識されていないが仙台は第二次大戦末期(敗戦の1ヶ月ほど前)わずか2時間の空襲で廃墟となった。「翼下の記憶」によると米軍は昭和20年5月25日に写真偵察機F13で仙台を撮影している。これにより綿密な爆撃計画が立てられ、7月9日午後4時にテニアン島を離陸したB29爆撃機131機は10日午前0時3分から2時5分にわたって仙台市街を焼き尽くした。そのために城下町時代あるいは明治大正時代の建造物はほとんど焼失して残っていないのである。戦後の仙台市の復興計画は精密に立案された。その基本的な考え方は江戸時代に構築された軸線を大事にしながら同時に車社会に対応した広い道路を形成するということであった。前者についてはアーケード街を形成して車両を排除し・後者に関しては広い道路の中央分離帯や歩道に多く樹木を植栽して「杜の都」を実質化する。もともと「杜の都」という言葉は商業地を取り囲んでいた武家地に屋敷林が多く植栽されていたことを表現する言葉だった。しかし仙台はこれを戦後に作られた東西ライン「定禅寺通り」(46メートル)に多くのケヤキを植栽することによって別の形で実現した。「歩行者が通る大きな軸線は動かさない・それと並行的に広い道路を造り樹木を植栽する」計画意思が一貫している。見事な都市計画の理念であった。他方、南北のラインは都市の中心軸が駅方向に重点を移した結果、商業地が奥州街道から「東へ東へ」移っていき東一番丁が商業地の中心に、東二番丁が広い自動車道路(50メートル)となっている。これら幹線の無電柱化工事は早くも1949年から行われており1953年までに完了していて、ケヤキが映える「杜の都」を引き立てることになった。中央通りも61年には無電柱化されている。こうした地道な努力が仙台市の景観向上にどれほど寄与しているか計り知れない。

歩き疲れてきたのでホテルに戻ってシャワーを浴びる。一休みしたら元気が回復。夜は友人と名物の牛たん焼きをいただくことにしている。待合せ場所はアーケード街(プランドーム一番町)の「閣」(地下1階)。目立たない店だが客が多い。分厚い牛たんが美味い。良いお店を紹介して貰った。友とは20年以上の付き合いだ。彼は4月から仙台(米ヶ袋)に住んでいる。現在の暮らしぶりを伺いながら旧交を温めた。地理的距離は離れたが心の距離は離れない。彼は遠いこの街で1人で頑張っている。私も英気を回復させてもらった。再会を誓って別れる。帰路、アーケード街の「桜井薬局」前を通った。何やら仰々しい写真類がある。読んでみると何と!ここ中央通り新伝馬町と東三番丁の交差点がアメリカ軍の爆撃目標(MP1)であったことが示されている。この周辺はかつて(今も)病院の多い区域であった。全くの非軍事目標である。にもかかわらず米軍は「市街地の中心」を爆撃目標に定めていたのだ。良い表示がなされていたので単なる観光客に過ぎない私が街歩きしながら戦争の影を感じることができた。仙台は歴史散歩愛好者に優しい街なのだ。暖かいものを感じたために少し遠回りして帰る。駅方向に歩くとアーケード街の名称は「クリスロード」から「ハビナ名掛丁」に変わる。この違いは江戸時代の新伝馬町(町人領域)と名掛丁(武士領域)に対応している。商店街組織が旧町単位になっているからである。新伝馬町と名掛丁の境は江戸時代の生活用水(四谷用水路)であり中央通りを横切っている。アーケードもここで区別されており路面の様子も違う。名掛丁は駅東にも続いている。武士領域であった名掛丁が「駅によって分断された」とも表現できる。そのために仙台駅には名掛丁を繋ぐ自由通路が設けられている。
「ドーミーイン」に戻る。1日目終了。雨に降られたが良い1日だった。

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