陳述書の方法論(創造的契機・破壊的契機)
国弘威雄氏は、師匠である橋本忍氏から何度も何同じシーンを書かされ、1字も書けなくなったときにこう言われたそうです(中園健司「脚本家」西日本新聞社)。
どうして書けないんだ。いや、大体、君はそこのシーンをうまく書こうと思うから、行き詰まってしまうんだ。うまく書こうと思うな。上手に書こうと思うな。もっと平凡な、単純な、幼稚でもいい、子供の作文のような形でも良いから、とにかくそのシーンを書いてごらん。それで形が出来たら、それを直して、更に直していけばいい。
陳述書を書く際の方法論は私も同じです。陳述書を一度で仕上げて提出することはありません。最初は走り書き程度です。この状態で依頼者に送ります。依頼者からチェックが入った返答が来ます。返答をふまえて書面の精度を上げ依頼者に返します。再度の打ち合わせを入れ完成書面にして提出します。最初から完成品のようなものは書けません。陳述書は依頼者との対話を続けながら少しずつ仕上げていくほうが良いようです。橋本氏はこうも述べています。
書いている途中で行き詰まるということは結局どういうことであったのか。いや1本1本の作品にどうしてあんなに喘ぎ苦しんだのだろうか。それは要するに書きながら自分の書いているものをああでもないこうでもないと強く批判しすぎたからである。創造力を上回る批判力の作用が作品の進行に物凄いブレーキをかけていたからである。
自分の中に「もう1人の自分」を置き、その「批判力」(第3者的目線)を意識することは大切なことです(世阿弥は「離見の見」と表現します)。しかしながら、批判力が勝ちすぎると、当初の自分らしい素直な視点が消え行き詰まってしまいます。弁証法(dialectic)の意義は以前このコラムでも触れましたが、まずは最初の「肯定(創造)的契機」が重要です。最初にプラス価値を措定することが大切で、これをふまえて「否定(破壊)的契機」が生きるのです。アクセルがなければ自動車は動きません。動かない自動車にブレーキを付けても意味がないのです。