近大久留米における遊郭の成立背景と展開
久留米郷土研究会45周年記念講演「近代久留米における遊郭の成立背景と展開」を拝聴(@久留米市民図書館)。講師は平川知佳先生(西南学院大学)だ。近代都市の成立に当たって遊郭の有した意味については先行する研究がある(加藤政洋「花街・異空間の都市史」朝日選書、松下孝昭「軍隊を誘致せよ」吉川弘文館など)。平川先生の本講演はこれら先行研究をふまえた優れた各論だった。以下、紹介。<殖産興業・富国強兵を進める明治政府は軍や炭鉱など男性が集まる場所を多く創った。これに対し貧しい農村から前借金を目玉に女性を集め「貸座敷」という名称でマッチングするシステムが考案された。政府は明治5年に娼妓解放令を出し、表向きは禁止の建前をとったが明治9年に芸娼妓規則を定めこれを地方官に委ねた。明治29年久留米に軍隊誘致が決定すると同時に遊郭設置が決められ、明治31年に桜町遊郭が開業した(原古賀町)。管理の権限は警察が握った。明治41年で店舗19軒に娼妓30名が存在した(昭和8年には23軒384名)。文化財収蔵館に「娼妓稼業及び債務弁済契約書」が残っている。多額の前借金をさせるとともに売上の半分を店にとられ、残り半分から利息食費を控除させるもの(現代の労働基準法では禁止)。契約書には当事者である女性の他に父親も署名押印していた(父親も加害者の一端を形成)。前借金の返済を出来た者は1人もいなかった(借金を肩代わりする身請け制度もあったがそれを出来た者はいない)。文化財収蔵館には「娼妓所得金日記帳」も残されている。借金は1600円や1700円という高額なものだった。福岡日日新聞に客と娼妓のスキャンダルが記事になっている。大正3年に砲工長が娼妓と心中事件を起こし、大正13年には軍曹が娼妓を殺す事件も発生している。今後も隠れている資料を丹念に読み解く地道な作業を継続的に行っていく必要がある。