言語化することによる思考の明晰性
けっこうな時間をこのコラムの作成に費やしながら「何故に自分はこんなにバカな作業を続けているのだろう?」という疑問に襲われるときがあります。そんな疑問を頭の何処かに置きながら、或る日、フェイスブック上の書き物を見ていたら、次の言葉が紹介されていました。
同じ行動をおこしていても「なんとなく出来ている人」と「言語化して出来ている人」では長期的な成長の部分で「天と地」ほどの差があります。(山田和史)
上記文章をふまえて私がフェイスブック上に書き残したものが以下の文です。
なんとなく感じていることを言語化することは結構難しい作業である。おもうに、この作業を行うためにはいろんな分野の言葉(言語的なエッセンス)を拾い集め・自分なりに咀嚼し・適宜修正して保存することが不可欠である。難儀なことであるが、これらを意識的に行っているか否かによって事後の思考の明晰性は長期的に全く異なってくるように思われる。
何故、自分はこの作業をしているのか?その答えの1つに「長期的な成長」をしていきたいというものがあります。今ここだけでなく別の時間や別の場所にも生かしうる思考の痕跡を残しておきたい。「地」を飛び立ち「天」まで行くのは無理としても「山」くらいには登ってみたいという欲望を抑えきれないようです。別の言い方をすれば「思考の明晰性を得る」ということが大きいように思います。なんとなく感じていることを明確に言語化しておきたい。何故なら「自分の中で感じているだけの状態では他の人に伝えることが出来ない」からです。他人に伝わる言語表現を得るためには自分が共感できる言葉(言語的エッセンス)を拾い集め、自分なりに適宜修正して保存することが不可欠です。なんとか目の前の「山」を登り続けて確かな足跡(思考の痕跡)を残しておきたいと考えています。肉体は滅んでも痕跡は残るからです。