言葉を創造しながら使う主体的存在
田中克彦教授は「言語における変化という現象」について次のように述べます。
ことばが変化することを歓迎する人はだれもいない。ことばの変化は、必ずことばの乱れとして指弾される、困った現象なのである。正しく乱れるということはありえないからである。ソシュールは、言語の変化という、この構造にとって不都合な現象を研究にとってじゃまなものだとして、学問の世界から追放する方法を発明した。それが共時(サンクロニー)言語学というものであった。だが、変化こそはことばの本質に属する。それは人間が出来上がったことばを使わされているのではなく、目的に合わせて、ことばを創造しながら使っているに他ならないからである。(コセリウ「言語変化という問題」岩波文庫・訳者解説)
多くの学問領域で花開いた構造主義は閉塞的思想界に新風を巻き起こしました。通時より共時を・動的より静的を重視する構造主義的思考は行き着くところ人間の主体性を否認するものでした。構造主義の著作を拝見すると主体がいかに脆いものであるか感じさせられます。私も「主体性を最初から祭り上げる思考」が嫌いでした。が実務を続けているうちに私は人間の主体性を重視する見解に共感するようになりました。「自分がどう思うかは他人が決める」という思想を紹介しつつ「他人にどう思われるかは自分が決める」という思想にも意義があると書いています(役者22)。自分の主体的決定なしに、このコラムは存在しないという確信があったからです。人は出来上がった言葉を他律的に使わされている受動的なだけの存在ではありません。人は目的に合わせて言葉を創造しながら使う主体的存在でもあり得ます。かかる創造性の武器として存在するのが「既に判っていること」を下敷きにし「まだ判っていないこと」を間接的に表現する「隠喩」という言語技術なのです。