親の葬儀をすること
嵐山光三郎・大村英昭「上手な逝き方」(集英社新書)で嵐山氏はこう述べます。
父が死んで10年以上になるんですが、自分の手で葬式というものを仕切りたかった、と言うとおかしいいんですけれども、人間の一生のうちの儀式の中で何が一番大事かと考えると、親の葬式だと思います。
私も数年前に実父の葬儀に立ち会いました。私にとって大切な意味のある経験でした。この経験に照らして、私は上記嵐山氏の発言に深く同意します。
最近、葬儀をしない家族が増えていると聞きます。故人が自ら「葬式無用・戒名無用」と遺言しているケースもあります。それには葬式仏教といわれる仏教の世俗化に対する批判・葬儀業者に対する不信・高額な葬儀費用の敬遠など種々の要因が含まれているようです。たしかに釈尊の開始した原始仏教は生者のためのものであって死者を弔うためのものではありません。我が国における仏教の諸派のうちでも奈良時代までに伝わった宗派は今でも葬儀はしません(法隆寺・東大寺・興福寺・清水寺など)。庶民が仏教に馴染むようになったのは鎌倉時代以降であり、戒名まで付け始めるのは寺請制度が強制される江戸時代以降です。仏教が庶民の葬儀に係わり始めたのは意外と新しいことなのです(村井幸三「お坊さんが困る仏教の話」新潮新書90頁以下)。ですから、自己の意思で「葬式無用・戒名無用」と明確に意思表示される方がいれば、その意思を尊重するのが望ましいと私も思います。しかし葬儀をしないのがあたかも<正しい>かのように主張する文章に出くわすと、私は違和感を感じます。参列者に対し故人への御厚意に感謝の言葉を捧げる機会が存在することは遺族にとり重要な意味を持つものだからです。葬儀とは故人に所縁のある生者のためのものです。私もいつかは死ぬのですが、葬儀はきちんと行ってほしいと思っています。