自らを正当化する知と差別意識
野家啓一「科学の解釈学」(ちくま学芸文庫)に次の記述があります。
<知>の新参者である「科学」が、それゆえにこそ「神学」や「哲学」を初めとする権威を備えた旧来の<知>から自己を峻別し「有用性と確実性」を宣伝することによってその差異を際立たせようとしたのは、ある意味で当然のことであった。自己の出自の卑しさを覆い隠し現在の自己のアイデンティティを確立しつつその「正統性(legitimacy)」を誇示しようとするとき、かつて自らがそうであったもの、そして自己と「似ていて非なるもの」に対して、ことさらに激しく差別意識を行使しようとするのは<知>の世界であろうとも変わるところはない。少なくとも古代中世においては<知>の光背を帯びていた占星術・錬金術・心霊術等々に対して近代以降に投げかけられた「非科学」あるいは「疑似科学」といった蔑称は、まさにそのような近親憎悪の顕れに他ならなかった。(略)いささか意地の悪い見方をすれば、このような「差別」のヒエラルキーを固定化し、新来の<知>の権力を確たるものにするためにこそ、科学は自己を聖別する1つの「物語」を必要とし、また自ら作り出しもしたのである。この点に関するかぎり、科学的<知>の正統化のプロセスは、政治権力の正統化のそれと、ほとんど選ぶところはなかったと言わなければならない。
法律学が自らを正当化する知を科学にだけ置くのなら法律学も科学が帯びている上記差別意識を同様に帯びることになるでしょう。実際、科学を無邪気に論じる法律家ほど科学が依って立つ方法論に無自覚に差別意識をまき散らすものです。本物の科学者は科学の限界に自覚的です。同様に、科学の限界に自覚的な法律家ほど自己を聖別する物語に対して懐疑的です。かかる謙虚な知にもとづいてこそ「不確実な科学的状況における法的意思決定」の意義を論じることが出来ると私は考えます。