5者のコラム 「5者」Vol.109

臨床法学の立ち位置

内田樹先生が鷲田清一「〈ひと〉の現象学」(筑摩書房)に関し書かれた書評。

鷲田清一はあるときから「臨床哲学」ということを言い始めた。その語には固有の含意がある。1つは(臨床医がそうであるように)「使えるものは全部使う」という素材についての開放性であり、もう1つは「哲学者は本来病んだ人・傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置の選択である。(略)研究室に篭って試薬や測定機器を操作するのではなく、現に血を流しうめき声を上げている生身の人間の傍らに立とうと決意した。そういうふうに考える哲学者は非常に少ない。私はこの大胆さに深い敬意を払う。あまり言う人がいないが胆力もまた哲学者にとって必須の資質だからである。鷲田の思索にとって最大の資源は彼自身である。彼の欲望・彼の屈託・彼の弱さ・彼の痛み・彼の高揚。彼の「生身」である。だから書物的な知識も鷲田は必ず1度は自分の生身を通過させる。その中で「腑に落ちた」言葉だけを拾い上げて彼の個人的アーカイブに積み上げてゆく。

私は「臨床法学」に憧れます。クライアントのため「使えるものは全部使う」という開放性と「弁護士は本来病んだ人・傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置を選択したい。研究室で学問する資格を得ることが出来なかった私はそのような振舞い方を身に付けるよう努力する他に生きる道が無いからです。私の弁護士活動にとって最大の資源は私自身の経験です。学校や司法研修所や実務で学んだ経験こそが私の財産。書物的な知識も必ず1度は自分の生身を通過させています。その中で「腑に落ちた」理論を拾い上げて個人的アーカイブに積み上げているつもりです。

芸者

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