5者のコラム 「学者」Vol.89

経験値のチカラ

 羽生名人はPHPオンライン上に次の言葉を残されています。

ただ変化が激しい時代だから経験はムダなのかというと、そうではないと思います。新しい局面に対処しなくてはならないとき『過去にこういうやり方で遠回りしてしまった』『こういう方法でブレイクスルー出来たことがある』といった経験にもとづく方法論が役に立つからです。あるいは何をやったらいいのかわからないときに過去の成功や失敗の経験が進むべき方向の指針になることもあるでしょう。たとえば私の場合なら全く新しい戦法が現われたときに『こういう新しい戦法が出てきたときには一生懸命研究すれば半年ぐらいで理解できるようになるかな』 『このテーマなら理解に1年はかかるな』といった目星をつけられるようになりました。これは過去に何かを成し遂げたときの“経験の物差し”があるからです。そうすると少なくとも目星をつけた1年なり3年なりの間は不安にならずにやるべきことに邁進できます。ですから役に立つのは直接的な知識や技術というよりは、それを身につけるに至ったプロセスの経験です。1週間ではこのくらいのことができる・1カ月ならこれくらい・1年ならここまでいけると、いろいろな“経験の物差し”をもっていると新しいテーマに出合ったときも落ち着いて対処できる。もちろん、ときには『自分の経験の物差しで判断するに、これは無理だ』と方向転換を決断することもあるでしょう。それが経験知の力だと思います。

 弁護士業界も法的規範の変化が激しくなりました。過去に買い込んだ膨大な法律書の多くは使えません。では昔学んだ経験が無駄か?というと、そんなことはありません。名著と言われる「我妻民法」や「四宮総則」など今でも読み返しますし、ときには引用します。過去に勉強した“経験の物差し”があるために初めて直面する新しい事態に対しても「たぶん何とかなるだろう」という妙な楽観が生じているのです。私はこういった経験知の力こそ法律実務家に必要なものだと思います。