純粋理性批判を用いた映画評論
カントの主著「純粋理性批判」(岩波文庫他)は要約するのが難しい書物ですが、基本的な構想は次の諸命題であろうと思われます。
①我々の認識は経験から生まれる。②しかし認識の枠組みとなる時間や空間は経験から生じるものではない(先験的なもの)。③我々が認識の対象とするのは「モノ自体」ではなく「現象」にすぎない。④現象のレベルでは「認識が対象に依存する」のではなく「対象が認識に依存する」。⑤モノ自体は神の領域に属するものであるから人間には認識し得ない。
裁判官は対象となった「事実」を認定し法を適用していくのが仕事ですが、そこで認識対象となるのは「現実に存在した客観的真実」(カントの言う「モノ自体」)ではありません。人間にすぎない裁判官は自分の目の前で訴訟関係者がどういう行動をとったか・どういう証拠が提出されたかという「現象」を前にして、限られた材料の中でとりあえずの判断をしているにすぎません。とりあえずの判断に国家権力を付与しているのが裁判という制度です。
映画「それでもボクはやってない」(周防正行監督)を観ました。この映画の特徴は最初に「現実に存在した客観的真実」が提示されることです。観客は「神の視点」を最初に与えられるのです。そして、かかる視点を共有する登場人物(被告人)が、裁判官の行った「現象に対する認識」を批判する形で物語が終わります。かかる構成が可能なのは「神の視点」が最初に与えられるからなのです(現実にはかかる視点は存在し得ません)。この映画で問題にされるべきなのは判決が「現実に存在した客観的真実」と合致していないからではありません。訴訟において「現実に存在した客観的真実」(モノ自体)など認識し得ないものだからです。真に問題にされるべきなのは判決を下した裁判官が有していた先験的な認識枠組み(思考の基準)がそもそも間違っている(無罪推定原則に従っていない)ということだと私は感じます。この映画のリアルさには感嘆させられます。多くの人に観てほしいと思います。刑事弁護人が抱いている絶望感の一端に触れて頂ければ幸いです。