現代日本における貧困
橘玲氏の「貧困」の定義は以下のとおりです。
人は人的資本・金融資本・社会資本から“富”を得ている。人的資本は働いて金を稼ぐ能力・金融資本は(不動産を含めた)財産・社会資本は家族や友だちのネットワークだ。この3つの資本の合計が一定値を超えていれば人は自分を「貧困」とは意識しない。プア充は地元愛にあふれ、友だちを大切にする。彼らが人的資本や金融資本をほとんど持たず「資本」が人的ネットワーク(社会資本)に大きく偏っていることを考えれば、これは当然のことだ。バイトや非正規で貯金がなくても、分厚い社会資本を持っていれば結構充実した人生が送れる。これは素晴らしいことだが、ここで問題になるのは誰もが「友だちの輪」に入れるわけではないことだ。友だちグループというのは「俺らに合う」奴を仲間とし「ウザい」奴を排除することで成立する集団だ。これはあらゆる共同体(コミュニティ)に共通する法則で、参加資格に(しばしば暗黙の)高いハードルがあるからこそ内部の結束は高まるのだ。いったん友だちネットワークから排除されてしまうと地元にいても面白くない。こうして学校を卒業すると(あるいは中退して)東京や大阪などの大都市を目指すのだが、そのとき十分な人的資本か金融資本を持っていないと(社会資本は地元に捨ててきたのだから)すべてをかき集めてもほとんど「資本」を持たない状態になってしまう。これが「貧困」だ。
現代日本社会の「貧困」を正確に認識するためには上記3点の考察が有効です。特に「田舎における社会資本の意義と問題点」は認識されにくいものです。キーワードは自由。田舎の社会資本は自由と対立しやすい。反対に都市においては特殊な人間関係に煩わされない自由を享受できる反面、人的資本・金融資本の有無がシビアに問われる。ユートピアなど何処にも存在しないのです。