地獄と極楽
江戸時代、立山連峰は聖域でした。長い坂道を登り室堂平に至ったとき眼前に広がる大パノラマに対し多くの者が神仏への感謝の念を抱きました。明治維新期の廃仏毀釈により神仏習合に立脚する立山信仰は弾圧され、特異な儀式や全国布教はなくなりましたが、この独特の雰囲気は今もここを訪れる人々に深い感動を与えずにはいません。室堂で印象的なのはみくりが池を焦点として立山連峰と地獄谷が対照的な場所にあることです。みくりが池の畔に立つと眼前に立山連峰の大パノラマが広がり背後に地獄谷があります。夏から秋にかけ高原植物と紅葉に彩られる立山連峰は阿弥陀如来の浄土と見立てられていました。他方、地獄谷は「今昔物語集」において日本国中の罪人が堕ちる場所であるとの記述があります。立山では「地獄」と「極楽」が一体化しているのです。
白井浩司氏はサルトルの演劇「出口なし」のテーマを次のとおり解説しています。
もしも仮に私のこの世界が私だけのもので他者が存在しないならば私はこの世界に意味を与える唯一の主人公であり得る。(略)が、他者の<視線>がひとたび私に注がれると私の世界には穴が空き、その穴から私の世界は崩れ始める。このとき他者は私の対象ではなくて、逆に私が他者の対象に変わる(新潮世界文学47「サルトル」788頁)。
「主客分離の思考」を貫いている点でサルトルは一神教的西洋思想の嫡出子です。たしかに他者が地獄であるという側面があることは否定しません。しかし他方で他者は極楽でもあるように私は感じます。地獄と極楽は全く別のところにあるのではなくて「同じ場所」にある。立山において地獄谷と立山連峰が一体化しているように。自分を焦点として、地獄としての他者と極楽としての他者が同じ場所で向き合っている。今、私はそんな感じを持っています。