古典を思考の中に取り込む
斎藤孝教授は「古典力」なる概念を名著を自分の古典として日々の生活や思考に生かす力のことと定義されています。(「古典力」岩波新書・はじめにⅲ)
世界中で教養の基本とされているものを知らないのでは教養の程度だけでなく人格までが疑われかねない。人生のある時期に集中的に古典に触れておくことは、生涯にわたる財産になる。大学1・2年生は教養課程としてカリキュラムを組まれていることが多いが、まさにその時期は 古典力を鍛錬するのに適している。大学に入学したならば専門の学問を1年から優先すべきだという意見もあるが、私は古典力の養成こそ最優先の課題だと考えている。
このコラムで私はいくぶんかの古典を引用してきました。たとえ理解が不足しているとしても古典の文章を自分の思考の中に組み込むことで「自由」を表現できると思っているからです。情報化が進むについれてコトバの賞味期限が短くなっています。ネット上には賞味期限の短いコトバが溢れています。1ヶ月どころか1日、下手をしたら1分先には賞味期限が尽きてしまうようなコトバが溢れているのです。世間のしがらみに満ちた賞味期限の短い陳腐なコトバで自分の思考を支配されてしまうこと。それが「不自由」な状態なのだと私は思います。「自由」はその対極です。「今・ここ」にとらわれている賞味期限の短いコトバから解放されて<他の時代>や<他の世界>に思考を広げる。何百年・何千年にもわたって生き残ってきた「賞味期限の長いコトバ」を自分の脳の肥料として取り入れる。こういう作業を経ることで人は真の意味で「自由」になることが出来る。私はそう考えています。弁護士は世間のしがらみに満ちたコトバで戦われる法的紛争の中を生きます。油断すると、こういう賞味期限の短いコトバで思考を支配されてしまいます。たまには古典に触れて近視眼的な思考をリセットし「自由」を取り戻すべきだと私は感じています。