叙述の2類型(光と影)
井上章一氏は小谷野敦「日本売春史」(新潮選書)の書評を書いています。
売春史を扱う叙述には2つの類型がある。あるものは娼婦たちの悲惨な境遇・性的な奴隷としての一面を強調する。そして、いま1つ、彼女らの文化的な輝きに目を向けるものがある。どちらもそれなりの意義を持っている。だが、その一方だけをあまりにふくらまされると、鼻白む。小谷野は中でも後者を増幅してしまう歴史に憤りを抱いているようだ。
近時の弁護士を扱う叙述にも2つの類型があります。1つは司法改革後の弁護士たちの「悲惨な境遇」あるいは「反社会的な存在」としての弁護士を強調するもの。この方面の叙述は昔からあって今頃始まったものでもないのですが、最近目立つのは弁護士個人の人格を揶揄するものや弁護士業界全体の将来性の無さを嘲笑するものです。私も本コラムで弁護士の苦境について自虐しているので他人事ではないのですが度が過ぎた揶揄や卑下には「いかがなものか」と感じることが多々あります。逆の方向で目立つのが「弁護士の素晴らしさ」(文化的な輝き)を増幅して描く動きです。司法改革による法曹志望者激減を受け日弁連や法科大学院関係者を中心に行われています。弁護士の活躍は社会的に見えやすいものなので「そんなに頑張らなくても良いのでは」と私は思っていますが、かなりの人為的キャンペーンが行われています。どちらもそれなりの意味を持っています。「その一方だけを」ふくらませて語られると白けてしまいますね。昔の司法試験に多くの若者が集まったのは若者が「経済的な裕福さ」に憧れただけではありませんし「正義を実現したい」という理想論に燃えただけでもありません。昔の司法試験が挑戦すべき対象として望ましく見えたのは<両者のバランスが良かったから>です。その「片方だけを増幅して描かれても」多くの若者は鼻白むことでしょう。