仕事に対する違和感
佐野史郎氏は「怪奇俳優の演技手帳」(岩波アクティブ新書)で述べます。
台詞を言っていて違和感があり身体にウソをついていると気がつくことがあります。もちろん新人のときなど、そうは思っても監督には言い出しにくいものです。日常とフィクションのはざ間の中でウソを押しとおすことが演技なのかもしれない、という迷いがあるからかもしれません。優れた監督なら新人の子のそういう姿を見ると「言えるまで待ってあげるから自分の間でやりなさい」と言ってくれます。それに、それなりの子がキャスティングされているでしょうから、その資質を優れた監督・プロデューサーならば、ちゃんと見ているのだと思います。自分の身体に対し気持ち悪いとかウソをついているようでうしろめたいと思わない俳優なら滞ることなく進行するでしょうし、そんな俳優は便利に使われるでしょう。 けれど、それでは現場は純粋表現の場から遠のいていくと思います。(略)先達の監督さんや俳優さんが現場でモメたり暴れたりして大喧嘩になった・という話を聞いたことはありませんか。彼らは自分の身体にウソをつくことができず、苦しんでいたのだと思います。
弁護士は事務所維持のため仕事として割り切って代理人の職務を遂行する場面があります。しかし自分にウソをつくことができず、ボス弁や依頼者とモメたり暴れたりして大喧嘩になることがあるかもしれません。弁護士には大喧嘩をする最後の「自由」は残されています。大喧嘩になるくらいならまだ良いほうです。大喧嘩すらできない弁護士のほうが難儀です。自分の価値観に反する仕事を「気持ち悪い」と思わないとか、心にウソをつくことを「後ろめたい」と思わない弁護士は依頼者からもボス弁からも便利に使われるでしょう。けれども、そんな仕事を続けていると弁護士は「自分の存在意義」を見失い、最悪の場合は心を病む危険性があります。要注意!