今に生きられない男・ドキュメンタリーな女
中村修治さんはフェイスブックでこう書かれています。<男はなぁ、全然いまを生きてられないんだよぉ。入院なんかした日にゃ、たいした人生でもないのに語るんだよぉ。自分史みたいな自費出版をする奴は全部男だよぉ。戦場で野垂れ死にすることに大義をつけちゃう大馬鹿者なんだょぉ。いまをまともに見たら生きられないじゃんかよぉ。残された時間が「いのち」だと判っててもいまに生きられないのが男なんだよぉ。日本はなぁ、そういうサムライでいっぱいなんだょぉ。朝から涙が出てくるわっ!>引用されているツイッターの記事。
男と女が違う生き物だと思うのは入院した見舞いに行ったときだ。
男の場合「こうして倒れてみると俺の働いてきた20年てさあ・・」と大河ドラマ的なトークが始まる。女の場合「病院食のどれが不味いか、看護師の誰が気に食わないか」など、果てしなきドキュメンタリーなトークを聞くことが多い。
学生の頃に学問への「入院」に憧れた私は(たいした人生でもないのに)自分を語りたがっているんですよね。自分史のようなものを自費出版するつもりは全くありませんが読書や経験のかけらを誰かに聞いてもらいたい・読んでもらいたい、という気持ちが強いのですね。いずれ野垂れ死することが判っているのに大義を考えてしまう大馬鹿者ですね。いつまでも(自分や地域や世界の)過去にこだわっていて現在に集中していない。なるほど。デカルトが「方法序説」を書いた動機は「私の人生を1枚の絵のように描き出して皆様の御判断を仰ぎたい」というものでした(田中仁彦「デカルトの旅/デカルトの夢」岩波現代文庫)。中村さんによれば日本には私のような今に生きられないサムライがいっぱいいる。同好の士は多くいるようです。おそらく私には果てしなき「ドキュメンタリーなトーク」より大河ドラマ的「自分語り」のほうが似合っているのでしょう。