5者のコラム 「5者」Vol.89

人間性の最後の砦

内田樹ブログに以下の記述がありました。

どれほど世の中が崩れても崩れずに残るものがある。それなしでは人間が集団的に生きてゆくことができない制度は、どんな場合でも残るか、あるいは瓦礫のなかから真っ先に再生する。どれほど悲惨な難民キャンプでも、そこに暮らす人々の争いを鎮めるための司法の場と、傷つき病んだ人を受け容れるための医療の場と、子供たちを成熟に導くための教育の場と、死者を悼み神の加護と慈悲を祈るための霊的な場だけは残る。そこが人間性の最後の砦だからである。それが失われたら、もう人間は集団的には生きてゆけない。裁きと癒しと学びと祈りという根源的な仕事を担うためには一定数の「おとな」が存在しなければならない。別に成員の全員が「おとな」である必要はない。せめて一割程度の人間が、どれほど世の中がめちゃくちゃになっても、この四つの根源的な仕事を担ってくれるならば、システムが瓦解した後でも、カオスの大海に島のように浮かぶその「条理の通る場」を足がかりにして、私たちはまた新しいシステムを作り上げることができる。

内田先生は人間性の最後の砦の場、失われたらもう人間は集団的に生きてゆけないような場として「医療」(傷つき病んだ人を受け容れる)「教育」(子供たちを成熟に導く)「霊的」(死者を悼み神の加護と慈悲を祈る)とともに「司法」(そこに暮らす人々の争いを鎮める)を挙げています。司法は、どれほど世の中がめちゃくちゃになっても、最後まで機能すべき人間性の最後の砦(条理の通る場)でなければならないのです。内田先生はこれらを担うべき人間は「おとな」として存在しなければならない、と説いておられます。正論です。そのためには、そこで働く者が「誇り」を持って仕事を出来る制度的手当がなければならないのです。司法改革の行き過ぎは弁護士が「おとな」として誇りを持って仕事出来る環境を破壊しているように私には思われてなりません。