人間を判っていないという自覚による学びの継続
青木省三「こころの病を診るということ」(医学書院)に以下の記述があります。
初々しい研修医時代を経て患者さんを診るようになった精神科医が、精神医学や精神療法を学ぶにつれて「自分は(誰よりも)人のこころがよくわかる」という雰囲気を醸し出すようになることがある。そしてそのような姿勢で患者さんに接している姿を見ると大切なものを失ってしまったのではないかと残念に感じることがある。人は何かを知らない時、またよく判らない時自ずと謙虚になる。そして少しでも判ろうと努力する。しかし、よく判ると思うようになったとき謙虚さが失われる。(略)1人の患者さんに逢っていて判ることなどたかが知れている。目の前の患者さんをしっかりと診て少しでも判ろうと努力し続けることに意味がある。過信した治療者にならないでほしい。自分の欠点と不十分さを自覚していたいものである。
法曹実務家も常に心しなければならない規範だと思います。初々しい修習生時代を経て事件を担当するようになった法曹実務家が臨床法律実務を身に付けるにつれて「自分は人間や社会のことが判っている」という雰囲気を醸し出すようになることがあるかもしれません。かような姿勢で当事者に接する姿を見ると「この人は大切なものを失ってしまったのではないか」と残念に感じることが出てきます。法律家も「自分は人の心が何かを知らない」「自分は社会のことが判っていない」と意識するときに自ずと謙虚になるのでしょう。その自覚の上で「人の心や社会のことを謙虚に判ろうと努力すること・学ぶ姿勢を継続すること」。1人の法律家が自分の担当する事件で認識できることなど、社会全体から見ればたかが知れています。そのような自覚の上で当事者と謙虚に対話し判ろうと努力することに意味があるのでしょう。「自分は人間や社会のことが判っている」と過信した法律家にならないように、自分の欠点と不十分さを自覚し、学び続けていきたいと思っています。