レントゲン博士の謙虚さ
大西正夫「放射線治療」(中公新書)に以下の記述があります。
レントゲンは1854年ドイツに生まれた。一家の移住にともないオランダで育ち、スイスの大学で学んだ後、ドイツ南部バイエルンのヴュルツブルグ大学物理学教授に就任した。77歳で亡くなるまでこの地を離れなかった。1895年12月、エックス線を発見し、翌月、歴史に残る論文「放射線の1新種について」と題した論文にまとめた。未知を表すX記号をもじってX線と名付けた新放射線発見の論文とそれを報じるニュースは世界中に衝撃をもたらした。このX線が発見者その人の名前レントゲン(線)でも呼ばれ続けていることは周知のとおりである。(略)レントゲンはX線を発見したにもかかわらず特許を取らなかった。ノーベル賞の賞金は教授を務めるヴュルツブルグ大学に全額寄付した。世界中の大学から講演を依頼されたが断り続けていた。表舞台に出ず晩年まで研究と講義に専念した。遺言には個人的な書簡類は焼却するよう書かれていた。(略)1896年1月23日、ヴュルツブルグ大学物理学教室でエックス線発見をめぐる最初にして最後の講演が行われた際、来賓の枢密院顧問官からエックス線をレントゲン線と命名したいとの提案があった。喝采の中で承認され以後今日に至るまでレントゲン線とも呼ばれ続けてきた。だがレントゲン本人はレントゲン線と呼ばれるのを嫌がっていた、と伝えられている。
弁護士業界に劇的な変容をもたらしたのは利息制限法を超過する利息の収受要件を定めた貸金業法の解釈に関する最高裁判決です。長年サラ金問題に取り組んだ弁護士らの地道な努力がこの判決を導いたのですが、中でも北九州の本田先生の執念がなければ最高裁の重い扉が開くことはありませんでした。本田先生は自分の業績をひけらかすタイプの方ではありません。レントゲン博士のような謙虚な方です。本田先生らが獲得した最高裁判決が出るや、これを活用して過払金返還で大儲けている弁護士・司法書士の「ど派手な宣伝」を目にするたびに私は悲しくなります。