5者のコラム 「5者」Vol.139

ブリコラージュとしての読書

 藤井孝一「読書は『アウトプット』が99%」(知的生き方文庫)の記述。

私が本書で言いたいのは、単に本を読めということではなく、読んだ本を自分の中に留めておくだけでは意味はないということです。それはいわば本の「インプット」に終始し「アウトプット」する習慣がない状態です。アウトプットと言っても、何も難しいことをする必要はありません。友人や家族に本の話をしてみる、それだけでも立派なアウトプットになります。相手が同じ本を読んでいないと話が合わないと思うかもしれませんが、そんなことはありません。今日あった出来事を報告するように本の話をすればいいのです。

私が本コラムで行っているのは読んだ本のアウトプットに過ぎません。読んでいるだけではつまらないので読んだことを生かして何かを創造したいなと思っているだけです。読書するとき私は書かれている内容をそのまま読んではいません。著者が思いもよらない方向で規範を拡張し「新しい何かを書けないかな」と考えながら読書をしています。それは「何かいたずらのネタはないかな?」とキョロキョロしながら企んでいる子供の視線に似ています。そういう意識の時にこそ人の知的能力は最大限に発揮されるのではないでしょうか。レヴィ=ストロース的に言えば「ブリコラージュ」(出来合いのモノの寄せ集め)としての読書と表現できるでしょう。「アウトプット」を意識しないで行う読書はつまらない。やはり知識は何らかの意味で「役に立つ」ことでこそ輝きを持ちます。世間的に役に立たない代表格のように思われている哲学も私の感覚ではもの凄く役に立ちます。それは「何かのアウトプットに繋がっている」ということです。ここでいう「役に立つ」というのは直接的知識として実益があるということではありません。自分が何かの文章をアウトプットするにあたって明示または黙示の「拠り所になる」という意味なのです。