バイアスを意識していることを意識させない
内田樹先生は「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)でこう述べます。
私たちが自分の過去の記憶(それも「すっかり忘れていた子供時代のこと」)をありありと思い出すのは、それを真剣に・注意深く聞いてくれる「聞き手」を得たときに限られます。「過去を思い出す」のは(逆説的なことですが)私と「聞き手」のあいだに、回想の語りを通じて親密なコミュニケーションを打ち立てられそうな期待がある場合だけなのです。私たちが忘れていた過去を思い出すのは「聞き手」に自分が何者であるかを知ってもらい理解してもらい承認してもらうことが出来そうだ、という希望が点火したからです。だとしたらそのような文脈で語られた「自分が何者であるか」の告白には「自分が何者であると思ってほしいか」のバイアスが強くかかっているはずです。それが真実なのか・欲望が作り出した物語なのか・聞き手はもちろん思い出しつつある私を含めて誰にも確かめることはできません。
「自分が何者であるか」の告白には「自分が何者であると思ってほしいか」という願いが込められています。相談者の言葉には強いバイアスが含まれていることがあるのです。バイアスの存在を意識せずに弁護士業務を続けていくことは出来ません。バイアスを払拭する客観証拠を弁護士が欲するのはこのためです。しかしバイアスの意識を前面に出しすぎる懐疑的弁護士には誰も「自分が何者であるか」という告白をしてくれません。人が自分のことを告白するのは欲望の存在を認めてくれる人に対してだけです。内田説が正しければ、相談者が弁護士に自分のことを告白するのは、その弁護士が相談者の欲望の存在を認め、欲望を上手に満たしてくれるときだけなのです。
相談者の中にあるバイアスの存在を意識しつつ・そのように意識していることを相談者に意識させないこと。弁護士は難しい課題を抱えていますね。