キャラと役割演技
哲学者・鷲田清一先生は論文「キャラで成り立つ寂しい関係」の中で以下の指摘をしておられます(瀬沼文彰「キャラ論」(StudioCello)72頁)。
キャラがかぶるという言葉はテレビのショー番組であれ実際の人間関係においてであれ1つの場に同じタイプの人物が2人いるときをいう。テレビのデイレクターの眼である。キャラクターの配置がまずいと特にキャラがかぶったりすると番組はすぐにそっぽを向かれる。(略)そのデイレクター的感覚がそのまま日常の人間関係の中にも差し込まれる。人々はよく「居場所を探す」とか「自分の居場所がない」という言い方をするが、その場合の「居場所」とは実はこのキャラがかぶっていない場所をいうのかもしれない。斉藤環氏も「若者のすべて」でこう述べます(瀬沼)。「キャラ」とは「対人関係のためのインターフェース」のことである。これは従来指摘されてきた「ペルソナ」(人が他者と接するときに用いる表層的な人格)ではない。ペルソナは取り替えがきく。しかしキャラは単一の主体の所有物ではなく対人関係の文脈においてその都度生成させられるものであるがゆえにコントロールがきかない。
ある場所に同じタイプのキャラが複数いてはならないとすれば、キャラを求める人は自己の存在を「キャラがかぶっていない場所」に求める他はありません。他方キャラがコントロールがきかないものだとすれば、存在の不安におびえる者は目前で与えられる複数かぶっていないキャラの役割にすがりつく他はないようです。瀬沼前褐書によれば、キャラに生きる人は自分の行為の「演技」性を指摘されると極めて感情を害するようですし、周りの者もしらけるようです。舞台上の演技は「舞台外の普段着の役者」がいることを前提にしていますが、キャラにはかかる2分法が存在しません。たぶんキャラに舞台外は存在しない。おそらく存在するのは「奈落の底」だけなのでしょう。