「普通」というコトバ
司法試験勉強中に予備校の講師が「法律は常識的な普通の判断の積み重ねだ」と強調されることがありました。少し話をするくらいなら良いのですが、あまりに繰り返されるので、ひねくれ者の私は嫌気がさし「常識こそ疑うべき対象ではないのですか?」「普通なんてどこにも存在しないのではないですか?」と質問しました。「普通の弁護士」である講師の方は「何というひねくれ者だ」という顔で私を見て、ほとんど無視されてしまいました(笑)。
西口敦「普通のダンナがなぜ見つからない」(文藝春秋)に以下の記述があります。
女子会でよく聞かれるフレーズ「普通の男性で良いのに、見つからない」に、コンサルタント的アプローチで切り込んでいってみよう。実はこの「普通」にはいくつもの「普通」が重なり合っているのである。たとえば「普通に会話が出来る」「普通のルックス」「普通の身長」「普通に清潔感がある」「普通のファッションセンス」「普通の学歴」「普通の年収」。まだまだ出そうだが、いったんここまでで止めてみよう。1つ1つが「普通」というからには確率50%とする。ところが、この条件全てを満たす人ということになると普通会話50%×ルックス普通50%×身長普通50%×清潔感普通50%×ファッションセンス普通50%×学歴普通50%×年収普通50%≒0.8%。なんと全ての普通を同時に満たす人は100人に1人もいないという薄ら寒い結果になるのである。たしかにそれぞれの条件では決して高望みはしていない。しかし女性が言う「普通」とは通常いくつもの項目の普通を「同時に」満たすことを求めている。つまり0.8%の確率を追い求めているわけである(15頁)。
私は今でも「普通」という言葉に敏感です。人がどういう文脈で「普通」という言葉を使っているかにとても興味があります。こんな私は「普通」ではないのでしょうか?