「対」科学としての易者の意義
五木寛之氏は「気の発見」(幻冬舎文庫)においてこう述べます(5頁)。
「気」というものの存在について私は余り真剣に考えたことがない。いまでもそうである。しかし、見えないから「気」は存在しないなどと考えたことは一度もなかった。(中略)社会革命への夢が遠ざかったあと、人びとの夢は人間内部の探求へとむかった。身体革命の夢のなかから「気」や霊的(スピリチュアル)な世界への関心が高まっていったようにも見える。さらに近代の科学的思考への反省から「モノ」と「ココロ」のむすびつきが見直されはじめた。そんな時代の風潮のなかで「気」や「宗教」がにわかにクローズアップされてきたのである。
1960年代の社会革命への夢が遠ざかった後、身体革命の夢の中から「気」や霊的な世界への関心が高まった流れは現代に繋がっています(07年5月24日易者8)。しかし「モノ」の世界が駄目だから「ココロ」の世界へと一気に線を越えるわけにはいきません。
五木氏は「元気」(幻冬舎文庫)において、こう述べています(121頁)。
斉藤孝さんの「呼吸入門」という本には自分は「気」については語らないという意味の文章があっておもしろかった。斉藤さんは学生時代から何十年も呼吸法について研究を積んできた学者だからその言葉にはうなづけるものがある。「気」というものには確かにいつも微妙ないかがわしさがつきまとうからだ。呼吸に関して専門的な著作をすでに刊行している斉藤さんが「気」についてふれようとしないのは釈迦が死後の世界や霊魂について語らないのと同じような姿勢かもしれない。(略)神秘主義に足をとられずに「対科学的」でありたいというのが私の立場だ。「反」でも「非」でもなく「対」であることが大事だと思う。
多くの弁護士は呪術や霊的な世界に対していかがわしさを感じています。判らないではないですが、法律実務は科学だけで割り切れるほど単純なものではありません。私は「対科学としての易者の意義」を理解する弁護士が増加することを密かに願っております。