5者のコラム 「芸者」Vol.40

自分の悪を自覚することと他者への寛容性

自分の悪の自覚は「他者への寛容性」と密接に関連していると私は思っています。日経ビジネス・アソシエオンライン(10年4月8日)に次の問答があります。

(ミツハシ)えっ?浮気が寛容の心につながるんですか。(シマジ)そうだよ。いまは不寛容な人が多いじゃないか。有名人がちょっとした過ちを犯すと断罪して鬼の首でも取ったようになっている人がいる。あれは美しくないね。マスコミも同じ。最近の男性週刊誌が面白くないのは不寛容すぎるからだよ。むっつりと不機嫌で何でも道徳的に断罪するモテない男のような匂いが誌面から漂ってくる。そんなものを読んでいてもまるで愉しくないだろ。不寛容な人というのは、正直者である自分が損をしているという思いがあるんだね。自分は正しい、少なくとも間違ったことはしていない。なのにうまく行かないことばかりだ。そんな鬱屈が人を不寛容にする。逆に、人に言えない秘密や小さな不道徳を自分の中に抱えている人は、他人の過ちを自分に置き換えて「私も似たようなものだな」と考えられる。人を許せる心が生まれるわけだよ。(ミツハシ)自分の中の悪を自覚している人ほど優しくなれるというのは仏教的ですね。(シマジ)自分はいつも正しいと思っているような奴にロクなのはいないからね。

正しいことをしている自分が何故うまく行かないのか?という思いが人を不寛容にします。哲学者ニーチェによれば西洋思想の鬱屈さは「欲望の発散を抑圧された弱者のルサンチマン」に由来します。この鬱屈がキリスト教信者の異教徒に対する極端な不寛容を生み出しました。が「異なる価値観の者が共生する社会」を形成する上で他者への寛容性は不可欠です。ゆえに私は自分の中の悪を認識しつつ上手に飼い慣らしていくことが大事ではないかと感じているのです。

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