臨床法学の立ち位置
内田樹先生が鷲田清一「〈ひと〉の現象学」(筑摩書房)に関し書かれた書評(日経文化欄)。鷲田清一はあるときから「臨床哲学」ということを言い始めた。その語には固有の含意がある。1つは(臨床医がそうであるように)「使えるものは全部使う」という素材についての開放性であり、もう1つは「哲学者は本来病んだ人・傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置の選択である。(略)研究室に篭って試薬や測定機器を操作するのではなく、現に血を流しうめき声を上げている生身の人間の傍らに立とうと決意した。そういうふうに考える哲学者は非常に少ない。私はこの大胆さに深い敬意を払う。あまり言う人がいないが胆力もまた哲学者にとって必須の資質だからである。鷲田の思索にとって最大の資源は彼自身である。彼の欲望・彼の屈託・彼の弱さ・彼の痛み・彼の高揚。彼の「生身」である。だから書物的な知識も鷲田は必ず1度は自分の生身を通過させる。その中で「腑に落ちた」言葉だけを拾い上げて彼の個人的アーカイブに積み上げてゆく。「手沢」という言葉がある。手になじんだ道具に生じるつやのことである。この本の中ではどの言葉にも鷲田の「手沢」が付着している。そのせいで、彼が使うと、どんな無機的な哲学用語も独特の温もりと滑らかさを帯びる。難解な角の尖った哲学的知見を「病んだ人・傷ついた人」にとってリーダブルで「薬効」のあるものにしているのは「仲を取り持つ」哲学者の生身の手沢である。
私は「臨床法学」に憧れています。クライアントのため「使えるものは全部使う」という開放性と「弁護士は本来病んだ人・傷ついた人に寄り添う職業である」という立ち位置を選択したいと思っています。研究室で学問する資格を得ることが出来なかった私は、かかる振舞い方を身に付けるよう努力する他に「生きる道」が無い、と言うほうが正確かもしれません。