5者のコラム 「易者」Vol.19

犯罪報道の問題点

 秋葉原の無差別殺傷事件に関する報道について感じるところがあるので触れておきます。新聞記事やネット上の論評によると、被疑者の両親は自宅におしかけた報道陣ら約100名に取り囲まれ「社会的責任は?」「事件を防ぐことが出来なかったのか?」等のしつこい質問を受け続けました。母親は泣き崩れて土下座し、その写真が公表されました。悲しみに打ちひしがれている両親に対し問い詰められる社会的責任とは何なのでしょう?事件を防ぐことが出来なかったのか?など誰が誰に対して言える言葉でしょう?この記者達は呪いの言葉を発していることに自覚がないのでしょうか?親が自殺することを期待しているのでしょうか?
 刑法理論上「人格形成責任」という考え方があります(団藤)が、受験生時代から私はかかる考え方が嫌いで「行為責任」に限定する学説(平野)を支持しています。行為についてさえ、その背後にある性格や環境が、責任を重くするようなものなのか責任を軽くするようなものなのかはっきりしないのに人格の形成過程についてまで、その背後にあるものに責任を問いうるかどうかを明らかにすることは現実的には(おそらく理論的にも)不可能である。(平野龍一「刑法総論Ⅰ」有斐閣63頁)記者が言う「社会的責任」とは何なのでしょう?それは団藤博士らが言う人格形成責任とは全く無関係の「世間を騒がせたことに対する責任」そのものでしょう。世間を構成する要素は佐藤直樹教授の文献から引用したことがあります(5者2)。呪術に満ちた世間の目・網の目としての権力・自己決定の不在・個人の不存在。取材現場に自己決定や個人など存在しないのだという反論がありそうです。記者も組織の一員だからデスクが要求する世間ウケする記事を書くのは当然だとの反論もありそうです。かかる反論があり得るのは百も承知の上で記者の方々には自分がいかなる立場で言葉を発しているのか<初心>に帰って再考いただきたい。私はそう願わざるを得ません。

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