5者のコラム 「学者」Vol.81

後から判る「学ぶ意味」

 相澤理氏は「東大のディープな日本史2」(中経出版)でこう述べます。

人は判らないもの未知なるものからしか学ぶことが出来ません。そして、それを学ぶことの<意味>も後になってから判るものです。そもそも学ぶ前から<意味>の判っていることなどそれこそ学ぶ<意味>などないでしょう。そうした学びの構造を理解していた先人はだからこそ「素読(意味を考えずにただ声を出して読むこと)」を学習の基本とし「読書百遍。意おのずから通ず」と説きました。<意味>は後から判る・だからこそ「考える前に覚えろよ」なのです。だとすれば教える者に求められるのは<判りやすく>教えることではなく「こんなこと勉強して何の<意味>があるのですか」とませた質問をする生徒に対して「今の自分には<意味>が全く判らないけれども、きっと大事なことに違いない」と問答無用に思わせる、人間としての胆力のようなものに他なりません。

 私は択一試験が課せられている理由を当時は単なる足切りにしか考えなかったのですが実務に入って最も役に立っている法律知識の多くは択一対策として理屈抜きに暗記させられたものです。私が受験を始めた頃の択一試験は条文判例の知識を問うものが多かったので受験生の多くは過去問の肢の正誤を確認する作業を行っていました。何故なのか問う前に単純な法律知識を暗記させられたのです。「考える前に覚えろよ」と言われていたのです。予備校の講師には「受験生には今は<意味>が判らないかもしれないが実務では大事なことなのだ」と問答無用に思わせる人間としての胆力のようなものがありました。かような昔の司法試験は「知識偏重」という非難を受け「思考力重視?」の制度に無理矢理に改変させられました。が若手法曹の実務能力が上がったという話を聞くことはありません。逆に実務家としての基礎的知識を欠いた欠陥法曹が増えているという懸念の声を聞くことが多くなりました。実務家登用試験としての<意味>が見失われているようです。