5者のコラム 「学者」Vol.87

弁護士業務における教養

 一般に人格は時間的空間的な制約を超えた安定的な生の主体をさす。しかし実際にそういう主体が存在しうるかどうかは疑わしい。実際には人間はその時々の状況に何とか自らを適応させているに過ぎない。英語で人格にあたるpersonalityは仮面を意味するギリシャ語(persona)に由来する。つまりは状況に応じて、どう役柄を演ずるかどうかが「人格」の原義である。そういう社会学的再解釈にもとづけば教養にも別の相貌が現れる。すなわち「教養」とは自分らしい生の技法を形成する作業である(あるいはまた自分らしい生の技法そのものが「教養」である)。そういう作業を人間は一生を通じて行う。それを大学教育の中に入れるかどうかが先の「教養課程」の存廃の問題である。「教養」とは人間がプライドを持って生きるための技法である。そういう技法の伝承は大学の内外で年々難しくなっている。(奥井智之「プライドの社会学」筑摩選書)
 弁護士は個別事件の時間的空間的な制約を超えた倫理的な主体として生きたいと願っています。が仕事の中で実際にそういう主体として存在しうるかどうか難しいものです。実際の弁護士は事件と格闘して何とか自らを適応させているに過ぎません。個別事件の中でどう役柄を演ずるかに日々追われています。教養が自分らしい生の技法を形成する作業であるならば、この作業を弁護士は一生を通じてこれを行うべきです。その絶好の機会であった司法修習が縮小されてしまった今日「教養」を考える機会が無くなろうとしています。教養とはプライドを持って仕事を続けていくための技法。この技法の伝承が市場化の波で年々難しくなっているのです。大学の教養課程が廃止されていくのと同様、弁護士業務における教養過程が仕事から一掃されてしまう日は近いのかもしれません。