常不軽菩薩なる理想像
植木雅俊「仏教50話」(西日本新聞)の記述。
法華経の理想とする菩薩は常不軽(常に軽んじない)菩薩である。この名は中国南北朝時代の鳩摩羅什がサダーバリブータを訳したものだ。ところが西晋時代の竺法講は常被軽慢(常に軽んじられる)と訳していた。全く相反する訳が謎だった。岩本幸男・岩本裕「法華経」(岩波文庫)の岩本訳は後者によっている。私は次のように考えた。サダーバリブータはサダー(常に)とバリブータ(軽んじられた/軽んじた)との、もしくはアバリブータ(軽んじられなかった/軽んじなかった)との複合語で肯定と否定・受動と能動の4通りの組み合わせ、すなわち①常に軽んじない②常に軽んじている③常に軽んじられる④常に軽んじられないの4つの意味を込めた掛詞である。鳩摩羅什は根幹の①で、竺法講は末節の③で漢訳していたわけだ。竺法講より鳩摩羅什のほうが原意を捉えている。けれども4つの掛詞を全て訳すのが最善で、私は「常に軽んじない(のに常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる)菩薩」と訳した。(No.36)
私は弁護士の理想像を「常不軽菩薩」と考えています。①常に軽んじない(全ての相手方に対して誠意を持って対応する)。②常に軽んじている(相手の具体的な要素を捨象し背後の抽象的部分に重きを置く結果、相手の属性を軽く考える)③常に軽んじられる(敵意や差別的な視線に曝されることが多い)④常に軽んじられない(にもかかわらず付き合う多くの社会人の皆様から何らかの敬意を持って処遇される)という4つの意味を込めています。この姿は法華者である宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも出てきます。弁護士は、たとえ一時的に軽んじられることがあっても、最終的に多くの人を敬い敬われる(常に軽んじられない)存在であるべきだと思います。