5者のコラム 「5者」Vol.35

体系内での基礎づけが出来ないこと

 ウィトゲンシュタインは「ある言語ゲームの意味はそのゲーム内では基礎づけることが出来ない」ことを主張しているようです。「数学内部では数学体系の意味を基礎づけることは出来ない」ことを証明した(らしい)ゲーデルの不完全性定理に通じるもののようです。
 夏目漱石も「文学論」において以下のとおり述べています(岩波文庫・上巻・20頁)。

余は下宿に立て籠もりたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学のいかなるものかを知らんとするは血をもって血を洗うがごとき手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あってこの余に生まれ・発達し・退廃するかを極めんと誓えり。余は社会的に如何なる必要あって存在し・興隆し・衰減するかを究めんと誓えり。

 羽生名人は毎日新聞「想創」にコラムを発表しました。このコラムを「ものぐさ将棋観戦ブログ」は以下のように評します(8月20日)。羽生は教養的将棋指しとかいう存在なのでもない。徹底的に職人的な将棋指しである。羽生が将棋以外の色々なことに興味を示してやまないのは彼が本物の将棋職人であるために将棋の真理を知るために他のことを考えずにはいられないからだ。将棋に限らず本当に何かの道を追求している一流の人物には必ず起こることである。彼が色々なことに興味を示すのは趣味や余技なのではなく将棋を本当に知るための必要に迫られてのことだ。
 ウィトゲンシュタイン・漱石先生・羽生名人など超一流の方々はその道の方法論を究めるにあたり「ある言語ゲームの意味はその体系内では基礎づけることが出来ない」ことを本能的に確信するのだろうと私は勝手に想像しています。大袈裟ですが本コラムも同じ指向性を有しています。私は法律論をもって法律実務を語ることは「血をもって血を洗うがごとき手段だ」と感じます。法曹実務家の行動選択の実際は法律論によっては認識することが出来ない・その本質は法律論とは別の角度から認識しなければならないと私には感じられるのです。

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