5者のコラム 「5者」Vol.52

ブリコラージュの意義

 岡敦氏はレヴィ=ストロースが「野生の思考」で展開した「ブリコラージュ」を次のように説明しています(「強く生きるための古典」集英社新書)。

歳を重ねる。あれもやったし、これもやった。だが、どれも失敗だった。能力が足りなかった。運がなかった。愚かだった。時間がなかった。足を引っ張られた。そもそも向いていなかった。いろいろ理由はあるだろう。だが理由なんて、もはやどうでもいい。どれも失敗だったとわかった今、ここから何ができるかだ。残骸のようにして経験が散らばっている。役に立たない半端な技術、使い道のない知識、断片的な感情。そんなカケラが無数に散らばった広大なゴミ捨て場に立っているようだ。もし、もう一度自分を「立派な人物」に作り上げようと思っても、とっくに手遅れだ。新たに素材を集め、選び、磨きあげる時間もなく、綿密な計画を立てる能力もないとわかっている。しかし、ブリコラージュなら?あの経験を生かし、この技術を流用して、何かできるのではないか?あれも知っている、これも覚えている、組み合わせてみよう。自分ひとりでは無理なら、同じように経験の残骸を抱えている人と力を合わせれば?ブリコラージュという方法を用いれば、ぼくもまた何度でも敗者復活戦を戦える気がする!レヴィ=ストロースにあっては、どんな経験も無駄ではなかった。苦労して身につけた技術や、時間をかけて仕入れた知識。それらは使うあてもなく、何年も何年も放置されていたけれど、無意味な待ち時間としか思えない月日の後、ブリコラージュによって、すべて再生されたのである。(45頁)

 このコラムは私が学んだ知識(社会学や哲学)を生かし身につけた技術(実務家としての経験)を流用して<何かできるのでは?>と試みている企てです。学生の頃に時間をかけて仕入れた哲学や社会学の知識は(使うあてもなく)何年も放置されてきました。私はこのコラムを書くことによって、それらの残骸を「ブリコラージュとして再生」しているのだと感じています。

前の記事

高等裁判所の訴訟指揮

次の記事

ひきこもりの規範的解釈