歯牙障害と損害算定
自賠責における後遺障害認定で歯牙障害は比較的重く評価されています(補綴5歯以上で13級・7歯以上で12級・10歯以上で11級)。が民事訴訟では歯牙障害による逸失利益の有無は争われる傾向にあります。歯牙障害被害者から依頼を受けた弁護士は自賠責等級を前提にした請求の構成を単純に行うのではなくインプラント治療の必要性も絡めた複合的な請求にするのが良いと考えます。以下は歯牙障害の事案(自賠責後遺障害等級12級)で述べた主張書面の骨子です。損害賠償法における医療行為の意味から説き起こす議論をしてみました。(若干補正しています)
1 総説
歯牙障害による損害を適切に評価するためには歯牙障害に対する有効な治療方法(インプラント)を行うこととの比較の視点を必要とする。遡って損害賠償法における医療行為の意味(2)や「損害」の意味(3)を論じるところから議論を始める必要があろう。これをふまえて歯牙障害の考え方を検討し(4)本件における損害算定方法を議論することとする(5)。
2 損害賠償法における医療行為の意味について
一般に損害賠償における「損害」は人身の傷害それ自体とこれを金銭に評価するための基準に峻別される。損害は不法行為時点において既に発生していると考えられるが、その具体的内容はその後の医療行為(医療水準や医師の選択)により変動し得る。損害賠償額は後遺障害の有無によって大きく異なるものであるから、当該事案における症状固定の有無(適切な医学的処置を加えても症状改善が見受けられないか否か)は医療行為(医療水準や医師の選択)の内容を良く良く吟味しなければならない。医療行為は日々進歩している。昔は死亡した事案が救命可能になったケースも多い。高度救命救急センターやドクターヘリの常駐などの医療体制確立によるところが大きい。医療行為の進歩により人身の損傷それ自体の回復可能性が影響を受ける結果、これを金銭に評価するための基準も影響を受けることがある。例えば高度救命救急体制の確立により従前は死亡していた事案が(後遺障害を伴って)救命できるようになれば、賠償額は遥かに高額化する。しかし保険会社が高度救命救急体制の確立に文句を言っても仕方がないだろう。高度救命救急体制の確立は人道問題であり医学問題だからである。上述の経過において、その医療行為が国が運営する「健康保険」の保険適用になっているか・否かは関係がない。健康保険は経済的観点(保険原理)で運営されているものであるところ、損害賠償にかかる観点は不要だからである。損害賠償における医療行為は事故時点の医療水準に照らした「原状回復」理念を中心に議論されなければならない。そうだとすれば、たとえ自賠責において「症状固定」の判断が為されていても適切な医療行為によって「原状回復」に近い状態が実現できるのであれば、これを<後遺障害による損害>として認識するのではなく<医療行為とその費用>の問題として認識すべきである。たとえば現在は形成外科の技術が進み以前であれば醜状障害として認識された被害者が数回の形成手術を受けることにより醜状障害と認識されなくなっている。かかる手術の適否を考えるのに任意保険会社の意向を確認することなど不要である。
3 損害賠償法における「損害」の意味について
被告は損害賠償法における損害について厳格な差額説を考えているようだが実務はそんな考え方ではない。金銭的減額がなければ損害は認められないとするならば実損以外は認められなくなるが、そんなバカな考え方をする法律家は存在しない。逸失利益に限って考えても、主婦労働の逸失利益は充分に考慮されているし、休業者・無職者障害者などでも賃金センサス等を活用した実質的考察がなされている。損害賠償における損害は厳格な差額説では運用されていない。当たり前のことであるが被告代理人に誤解が見受けられるので強調しておきたい。
4 歯牙障害の考え方の基本
当職は歯牙障害の事案を被告代理人が属する*法律事務所と解決したことがある。その際インプラント治療を行う場合との比較を議論した。歯牙障害に対する有効な治療方法とされているインプラント治療との比較の視点を欠いたままでは歯牙障害の十分な検討にはならない。何故ならインプラント治療を有効適切に行えるのならば(自賠責における後遺障害認定の問題とは別に)民事損害賠償法における「症状固定」を別個に考え、インプラント治療費を認める代わりに後遺障害による逸失利益を撤回するという考え方が成り立つからである(治療期間が長くなるので入通院費用や入通院慰謝料は増額する)。そもそも身体傷害による「金銭賠償」は医学的な処置が出来ない部分について仕方なく行われるのである。身体傷害に対する有効な医学的な処置が存在するのならば(健康保険適用になるか否かとは別に)ベストの治療が行われるべきものである。被害者は金を貰うよりも十分な医療をしてもらい元の体に近い状態にして欲しいという希望の方が遥かに強いのであるから、その治療は損害賠償法上も不可欠のものと考えられなければならないのである。そしてインプラント治療が不可能な場合初めて歯牙障害による逸失利益を考察すべきことになる(この場合の「逸失利益」は「厳格な差額説」で考察されるものではない)。歯の健康状態は現代社会において極めて重視されている。歯の状態が社会的地位とリンクして考えられているアメリカ社会の強い影響がある。一般的な歯科の他に小児歯科・審美歯科なども大いに興隆している。歯科で対処できない口腔外科も重要性を増している。歯の状態を良くするために多くの国民が多大の医療費を投じているのが現実なのである。「歯は臓器である」という言葉も知れ渡った。現代社会において歯牙障害の逸失利益を厳格な差額説で考察する被告代理人主張は時代錯誤である。
5 本件における損害評価
主治医である*医師は「日常生活上の不利益がゼロとは言えない」との意見書を提出されている(甲*)。かかる意見に至る経過において*市立病院・*歯科・*大学病院など複数の病院での診療を必要とした(甲*)。*大学病院の診療を必要としたのは酷い口腔の痛みが生じ一般歯科で対処できる範囲を超えていたからである。この痛みは現在は沈静化しているが、今後も発生する可能性があるとされている。今回なされている歯欠損の補綴は「耐用年数など証明できない」ものであり一時的対症療法に過ぎないのである。原告は株式会社*の*工であるが作業中に前述の痛みが発生したら仕事にならない。また原告は夫が営む*業の手伝いもしているところ、重いものを運ぶ際に(歯を食いしばることが出来ず)力が入らないために極端に作業効率が悪化した。*医師による本件後遺障害診断書には「将来エソ性歯髄炎に移行する可能性」も指摘されている。これが将来医療費として認定されないのであれば後遺障害による損害評価の中で充分に斟酌されなければおかしい。*医師は「日常生活上の不利益がゼロとは言えない」という意見しか書けないとされた。具体的に不利益が何パーセントとは言えないというのである。誠実な回答だろう。被告任意保険会社の*氏は*医師の話を聞きに行った。その結果として*氏は一般的基準に基づき賠償額の提示をした(甲*)。交渉時点で任意保険会社社員が認めていた賠償提示額すらも否定する被告訴訟代理人の主張には驚くばかりである。本件における思考形態は①インプラント治療費を認め通院慰謝料を増額(後遺障害による損害は撤回)するか②現状を前提にして慰謝料と逸失利益を十分考慮するか、という2択であろう。原告は訴状を②で構成しているが被告側主張に鑑み①をも主張する。
* 被告(損保会社)は歯牙障害による逸失利益を争いました(岡山地裁平成12年3月23日東京地裁平成14年1月15日 同平成16年8月25日・同平成18年3月28日・同平成20年1月15日・同平成22年7月22日・横浜地裁平成22年2月8日)。他方、当職はインプラント治療費が認められた裁判例を適示して対抗しました(東京地裁平成22年7月22日名古屋地裁平成22年11月5日・仙台地裁平成24年2月28日)。
* 裁判所から上記準備書面の趣旨に従って和解案が提出されました(構成としては②)。裁判所は通常の損害項目にブリッジ費用を加算するとともに慰謝料額を高く認定しました(傷害慰謝料・後遺障害慰謝料とは別に特別増額)。これに弁護士費用1割が加算されています。同種事案に比して若干高い認定額です。双方がこの和解案を受諾したため本件訴訟は和解により終了しました。インプラント手術適応には個人差がありますし特有のリスクもありますから、インプラント治療費を正面から肯定することに抵抗があるのかもしれません。