死を通して生を考えよ(メメントモリ)
仕事柄、他の人の死にかかわることが多い。特に50歳を超えるとプライベートな局面で他の人の死にかかわることが多くなる。昔、ある葬儀会社の社長さんから「葬儀は人間が自分の生き方を見つめなおす最高の場面である」というお話を伺った。そうなのだ。葬儀の場に於いて死者は生者に対し「死を通して生を考えよ」と諭すのである。井上陽水の「チエちゃん」(@氷の世界)を久しぶりに聞いてみた。「ひまわり模様の飛行機にのり」行ってしまったあの子。誰にも「さよなら」言わないままで「誰にも見送られずに」旅だった「チエちゃん」。その姿は聞き手の解釈に委ねられる。飛行機に乗って着いた「向こうの海岸」。「水着」になって見せつける「身体」とは、あまりにもシュールな比喩だ。黄泉の国にある「向こうの海の水」は確かに冷たいだろう。けれども「冷たいばかりじゃない」のである。そうでなければ死者は浮かばれない。「行ってしまった」という歌詞は「逝ってしまった」に掛けられている。が曲調は明るい。これがこの曲の不思議な魅力である。日本人がイメージする死者の旅立ちは「川を渡る小舟」だが、陽水は「飛行機に乗って越えてゆく海」というイメージを与えている。何て新しい解釈なのであろうか。それにしても死者が見せつける「身体」とは何なのだろう?陽水は「向こうの海の水」が<暖かい>とまでは言っていない。「向こうの海の水」は確かに<冷たい>のだ。だが「冷たいばかりじゃない」のである。その微妙な差異を乗り越えるのは死者に対する生者のイマジネーションなのであろう。陽水が描く死(詩)の世界は、たしかに「言葉を越えている」。しかし、言葉にならないものを何とか言葉で表現できるように努力することも必要なのだ。陽水のように。葬儀は人間が自分の生き方を見つめなおす場面である。葬儀の場に於いて死者は生者に対して諭す「死を忘れるな(メメント・モリ)死を通して生を考えよ」と。