舞台を維持するためのパフォーマンス
ウェブサイト「ICS」の記載。
なぜ人は社会的場面においてパフォーマンスを行うのであろうか。ひとつには、やはり「少しでも他者によい印象を与えたい」「自分をよく見せたい」という利己的な動機があるだろう。しかし人は必ずしも「私的利得(private gain)」だけを目的としてパフォーマンスを行うわけではない。これらに加えて重要なのは舞台(状況)それ自身を維持するためにパフォーマンスが行われることである。例えば野球の審判は自分の判断に確信が持てない場合でも逡巡することなく(逡巡している素振りを見せることなく)判定を下さなければならない。というのも、ためらいがちな審判のもとでは試合が円滑に進まないからである。このように我々は自分のため・他者のため・そして舞台全体の秩序のためにパフォーマンスを行っている。しかし、そのようにして成り立っている現実(状況)は「ごく些細な不運な出来事で粉々になりかねない繊細な壊れ物」(Goffman)である。もし我々が「印象管理」に失敗した場合「同席の他者は(彼に)敵意を感じ、参加者すべては一種のアノミー(対面的相互行為の小さな社会体系が崩壊することで生じる)を経験して落ち着かない気分になったり、途方に暮れたり、顔色を失ったりする」(Goffman)ことになる。したがって我々は様々な演出上の技法(ドラマトゥルギー)を駆使してパフォーマンスを成功させなければならない。
弁護士が職業的場面で行うパフォーマンスには「他者によい印象を与えたい」「自分をよく見せたい」という利己的な動機で行われているものもありますが「舞台(状況)それ自身を維持すること」を動機とするものも存在します。法律家(特に裁判官)は自分の判断に確信が持てない場合も逡巡する素振りを見せることなく判定を下さなければならない場面が多々あります。たよりない法律家のもとでは手続が円滑に進行しないことが多いからです。