5者のコラム 「5者」Vol.130

人は1つの時間を2度経験する

高橋源一郎さんが人生相談(毎日新聞)でこう回答しています。

わたしは今年66歳です。身の衰えを感じる時も多くなりました。(略)幼い頃、祖父母を見て彼らはどうしてこんなに年老いているのだろう、と不思議でした。そして年老いているとはどんな感じがするものなのだろうと思ったものでした。今、彼らの年齢にたどり着いて判ったことがあります。それは彼らはたぶん幼い者・若い人たちを懐かしくもいとおしい気持ちで見つめていたのだろう、ということです。 若い時にはその若さについて考えることはありません。その渦中にいるだけで満足なのですから。若いことの素晴らしさを感じることができるのはそれが失われた時になってです。人は1つの時間を2度体験することができるのです。1度目は当事者として・2度目はそれを失ったものとして。だとするなら老いとは人間にとって生という時間をほんとうに味わうための「刈り入れ」の時なのかもしれませんね。(略)けれども、もっとも大切なのは最後の「老い」という夕刻の実はもっとも自由な時間帯こそ人生を仕上げ輝かせてくれるものであると知ることだと思います。

上記記述は、ヘーゲルが述べたとされる「全ての世界史的な出来事は2度現れる・1度目は悲劇として・2度目は茶番として」(マルクスによる引用)をもじったものだと感じられます。もじって言うなら人は1つの時間を2度体験します。1度目はそれを創るものとして・2度目はそれを失うものとして。事件当事者は1つの事件を2度体験します。1度目は生の(非言語的な)時間として・2度目はそれを回顧的に語る(言語的な)時間として。両者には時間的な間隔があるので明確に区別する必要があります。訴訟は自分にとっての「正義」を回復するための「刈り入れ」の時なのですね。