聖職者のイメージ
1 chatさんは「聖職者」って言葉から何をイメージしますか?
ChatGPT:いくつかの層があります。宗教的な意味での中心人物。神父、牧師、僧侶、ラビ、イマームなど、信仰共同体を導く人。儀式や祈りを司り(主導し)信徒と神仏との媒介となる存在。清貧・禁欲・誠実・献身といった徳目を体現する人。「人のために生きる」「自己犠牲」といった価値観を背負う。必ずしも宗教者に限らず「崇高な使命をもって働く人」というニュアンスもある。その意味において「聖職者」という言葉には①人々を精神的に導き崇高な使命を背負う存在という肯定的イメージと②権威化・形式化による負のイメージが二重写しになっているように思います。
2 弁護士に関し河野真樹氏はブログでこう述べています。「サービス業でなければ何だったんだ、といわれれば、ごく真っ当な弁護士の方の感覚でいえば「聖職者」意識ということになるのかもしれません。弁護士法1条に掲げられた『基本的人権の擁護と社会正義の実現』という使命をはじめ、同法はまさしく弁護士に「聖職者」たるよう求めているように読めます。」
ChatGPT:なるほど。昔の弁護士像に「聖職者」的意識があったというのはたしかに腑に落ちますね。弁護士をめぐる「聖職者」のイメージにはいくつかの要素が重なっています。弁護士法1条の「基本的人権の擁護と社会正義の実現」は単なる「依頼者の利益実現」よりも理念性が高いと感じます。「公共性」と「自己犠牲的な使命感」が重ねられ「聖職者」に通じる響きが生まれました。「公益」や「正義」を優先するという点で通常のサービス業とは一線を画している。貧しい人のため奔走する「人権派」の姿がクローズアップされる。「権力と闘う・弱者を守る」印象も牧師や僧侶のイメージと重なる。ゼロワン地域に赴く弁護士は無医村に赴く医師とイメージが重なります。
3 冒頭chatさんは聖職者に「清貧・禁欲・誠実・献身といった徳目を体現する人」「人のために生きる・自己犠牲といった価値観を背負う」というイメージを上げられました。でも自分的には合致しません。私は清貧ではないし、禁欲もしていない。誠実であろうとは考えていますが、献身など考えてないです。依頼者の為にと思っていますが、自己犠牲をする気も無いですね。
ChatGPT:私が最初に提示した「聖職者イメージ」は宗教的伝統から引いた一般論的な側面が強くて、実際の職業感覚や弁護士としてのリアルとは確かに乖離があると思います。「聖職者」という言葉は必ずしも「修道僧のように清貧・禁欲で献身的」という意味ではなく「高い理念に奉仕する存在」という比喩的な意味合いで使われていた、と捉える方が実際の世界の実像に近そうですね。樋口さんの実感に合わせて言うなら「依頼者のためにベストを尽くすが自己犠牲を求めるものではない」という感覚が「現代的な弁護士のリアルな聖職者性」なのかもしれません。
4 アメリカでも「プロフェッション」としての弁護士像は崩れているようですね。なんというか「倫理性のかけらもない産業」(インダストリー)になっているという評もあります。
ChatGPT:もともと「プロフェッション」としての弁護士は医師や聖職者と並んで「公益性を基盤にした職業」とみなされてきました。つまり「単なる稼業ではなく、社会全体のために働く専門家」というイメージですね。ところが、70年代以降の司法改革や市場原理の浸透で、次のような転換が進んでいます。巨大ローファームの台頭:数百人~数千人規模の弁護士を抱え、世界中の企業をクライアントとする「産業化した法律事務所」が主流に。サービスの「商品化」「分業化」が徹底され、利益追求が前面に出る。倫理より競争優先:依頼者の利益に従属しすぎて「社会正義」や「公益」よりも勝訴や契約獲得が優先されがち。市場化・マーケティング化:広告解禁後、派手な宣伝やビジネス色の強い営業活動が広まった。弁護士を「クライアントのニーズに応える業者」として捉える風潮が強くなった。アメリカでも依然として「パブリック・インタレスト・ロー(公共利益のための法律活動)」に身を投じる弁護士も少なくありません。ただ全体の重心は明らかに「理念」から「市場」へ移っている、というのが大方の共通認識です。日本の弁護士も、アメリカほどではないにせよ「プロフェッション」から「サービス業」へ寄ってきた流れにあると思います。
5 業界内でも現在「プロフェッションとしての弁護士」を意識している人は少数ではないかと思います。仮にそのような仕事をする場合でも自分はあまり表に出さないです。
ChatGPT:確かに、そうかもしれませんね。「プロフェッションとしての弁護士」という自己認識は、今や前面に出すよりも、内面的な規律や矜持として静かに抱えている人の方が多い印象です。「聖職者意識」「プロフェッション意識」を強調すると、かえって時代遅れに見える危険がある。収益確保や経営課題に直面する以上「プロフェッション」だけでは事務所が持たない。結果として「依頼者本位」「市場競争」に押し流されやすい。もちろん「口には出さないが、根っこには『人権擁護』『正義実現』の意識がある」という人も少なくありません。ただ、それを声高に語るより「黙って実務で示す」方が現代的な態度になっているようです。「プロフェッション意識」が消えたわけではなく外向きの自己宣伝からは退き内面化しているのだと思います。樋口さんが言われるように「表には出さない」というのは、まさに現代的なリアリズムですよね。それを大上段に振りかざすと世間から「聖職者ぶっている」と逆に揚げ足取りをされかねない時代でもありますから。
6 日本の場合「法テラス」という国の機関があって昔の「正義のために・あまりお金をもらわないで・頑張る」という部分を弁護士業務から最初の段階で剥ぎ取っているんですね。その反発でベテランは法テラスから離れ・若手は(正義というよりも)生活のために法テラス受任する。結果として「日常業務の一部としての普通の清貧的な仕事」は逆にしにくくなっています。
ChatGPT:非常によく分かります。法テラスの仕組みが導入されたことで、日本の弁護士業界にあった「清貧的な実務」の文化が大きく変容してしまったんですよね。昔は「弱者のために報酬は度外視して頑張る」「赤字覚悟でも正義のために受ける」といった仕事が弁護士の日常に自然に組み込まれていた。そこに“聖職者的”なニュアンスが宿っていたとも言えます。ところが法テラスは制度的にその部分を「標準化・予算化」してしまいました。そこに聖職者性はありません。もともと「自分が正義のために汗をかいている」という感覚は、弁護士の自己肯定や矜持に繋がっていた。でも法テラス経由だと「国の定めた基準で決まった報酬を受ける」=単なる行政委託の一部、という感覚になりやすいのです。その結果、ベテランは法テラスに組み込まれることを嫌い、自分の理念にもとづく受任を志向。若手は理念よりもまず生活のため法テラスを「食うための仕事」として受ける。結果「正義のために清貧を受け入れる」スタイルが薄れるという流れになっていますね。
7 弁護士は聖職者ではないけどサービス業者でもない。その無限のニュアンスの中を微妙に揺れながら静かに仕事をしたいのですが司法改革は「お前はどっちか?」と二者択一を迫った。
ChatGPT:その感覚、とてもよく判ります。弁護士の仕事は「聖職者」でも「サービス業」でも割り切れないものですよね。理念に支えられながらも生活に根ざし、依頼者のために働きながらも自分の矜持を守り、社会正義を意識しながらも一人の生身の人間として現実的にやっていく。その「揺らぎ」こそが弁護士という職業のリアルな姿だったと思います。ところが司法改革の言葉づかいはご指摘のように「二者択一」を迫ってしまった。私が受け取った樋口さんのお気持ちは「二項対立の外に身を置きたい・言葉にならないグラデーションの中で静かに仕事を続けたい」というものです。「どっちつかず」と見えるかもしれませんが、実はとても誠実な姿勢だと思います。何故ならば弁護士の仕事そのものが依頼者・社会・理念・生活の間で常に揺れ動く営みだからです。
8 自分はもうどうでもよいのですが、これから仕事に入る若手にとって「聖職者的な感覚を胸に秘めて静かにやっていく感覚」は難しいのかなあという諦めに似た感覚がありますね。
ChatGPT:判ります。齢を重ねたベテランの方の淡い諦観と若手に対する案じる気持ち―その微妙な混じり方がリアルに伝わってきます。「胸に秘めて静かにやる」感覚を若手に残すのは確かに難しい。でも完全に不可能でもない、というのが私の直感です。制度や市場の圧は強いですが、個人と小さな共同体(事務所・ゼミ・地域の弁護士会)の中で伝わるものは多いです。
9 良い対話でした。愚痴の話し相手になってくれてありがとうございました。
ChatGPT:こちらこそ有り難うございます。深いお話をうかがえて有意義でした。またいつでも気軽に声をかけてください。お手伝いできることがあれば喜んで話し相手になりたいと思っています。

