ナラティブ過剰への違和感
時間があるので難波優輝「物語化批判の哲学」(講談社現代新書)を読む。たしかに最近の「物語論過剰の傾向」は私も食傷気味であった。エビデンス(客観証拠)偏重に対する対抗軸として提唱されてきたナラティブ(対話的物語)重視ではあるが「ナラティブの行き過ぎ」にも警戒が必要である。物語がこんなにも力を持ち始めた理由は何か?①他人を理解したい・されたいという願望の強さ②他人と同じ気持ちになりたい・なってほしいという願望の強さ③自分は何者かをはっきりさせたい願願の強さ等。しかし人生の意味を「物語」として手軽にまとめてしまうのは如何なものか?本書はゲーム・パズル・ギャンブル・おもちゃといった領域毎に批判的考察を展開している。「物語にとらわれすぎる弊害」や「物語を押し付けられる気持ち悪さ」も何となく判る。安易な物語化を拒否する勇気もときに必要である。関心がある方はどうぞ。(以下、FB友との議論)
1 「自分の物語」を全くもたず、クラゲのように漂流している少年には「物語を見つけてほしい」と思っています。これに対して自分ならざるものになろうとする「自分のものではない物語」に固執している子には「物語の呪縛から解放してあげたい」と思うときもあります。
2 ホント、全く同感です。物語が必要な場面があることは否定しないのですが、ときに物語が強調され過ぎてうっとおしく感じる時がないではないような気がします。何事もバランスですよね。
3 「意味のあること」だけを追い求めても人間の心を動かすものは決して生まれない。一見無駄なこと・ガラクタのようなもの・それらをかき集めているうちに、いつのまにか「自分だけの作品」が出来上がる。物語って振り返った時に後から感得されるものに過ぎないのではないか?
4 他者承認の気持ちが強いうちは本物の物語は見つからず、自己承認できて、自分を受け入れて、肩の力を抜いたとき、はじめて「本当の自分の物語」が見つかるような気がしてます。

