久留米版徒然草 Vol.274

世界-内-存在を巡る対話

1 ハイデガーの「世界-内-存在」という概念について説明してください。
ChatGPT:ハイデガーの「世界-内-存在(In-der-Welt-sein)」という概念は、彼の主著『存在と時間(Sein und Zeit)』の中核をなす思想です。ハイデガーは「存在(Sein)」がどういう意味を持つのかを根本的に問おうとしました。まず「存在について問うことができる存在者(=問いを立てる主体)」とは何かを考えます。この主体こそが人間であり、ハイデガーはこれを特別に「現存在(Dasein)」と呼びました。「世界-内-存在(In-der-Welt-sein)」はドイツ語で「世界の中に存在すること」という意味になりますが単なる空間的な「中にある」という意味ではありません。例えば椅子や机のように「存在する物体」ではなく、「世界の中で意味と関係のネットワークの中に生きている存在」です。ハイデガーは「世界-内-存在」は以下の三つの要素から成ると説きます:①「現存在(Dasein)」世界の中で生き理解し問い関係しようとする存在。つまり私たち人間。②「世界(Welt)」単なる物理的な空間ではなく「意味と関係が入り組んだ場」です。私たちは道具や人間関係、文化的規範といった「意味の網の目」に常に浸っています。③「内(In)」物理的な「内包」ではなく「関わり合いの中で開かれている」状態を表します。私たち人間は物理的な宇宙の中に孤立して存在しているのではなく、意味と関係に満ちた世界の中で他者やモノと関わりながら存在している。ハイデガーは従来の哲学が「主体と客体を分ける」デカルト的枠組みに偏っていたと批判しました。「私は考える、ゆえに私はある」と言っても「私」だけがぽつんとあるようでは世界との関係が抜け落ちています。「世界-内-存在」は最初から「世界との関わり」を前提にした存在理解です。

2 ハイデガーが、人間を「世界の中で・意味と関係のネットワークの中に・生きている存在」とみなす、というのは彼の師匠であるフッサール的な発想ですね。
ChatGPT:おっしゃるとおりです。人間を「意味と関係のネットワークの中で生きている存在」と捉える視点は、ハイデガーだけでなく、その師匠であるフッサールの現象学的な影響を色濃く受けています。ハイデガーが「どのようにフッサールの枠組みを受け継ぎつつ、どう独自化したか」を整理してみます。フッサールは「意識は常に何かを志向する(志向性)」という原理から出発し、「世界は意識の中に現れる意味のまとまり」として捉えました。フッサールにとっての「世界」は意識に現れる現象の構造:意味の現れ方として構成されます。ハイデガーは意識と対象の関係性における意味の構成、世界は「意味をもつ世界」として現れることをフッサールから継承しています。両者の違いは意味の構成主体を「超越論的主観」から「現存在」へ置き換えること。フッサールは意味や対象の成立の源泉を「超越論的主観(すべての経験の可能性を担う純粋意識)」としましたが、ハイデガーは、もっと具体的・生きられた日常の存在者=「現存在(Dasein)」としました。

3 なるほど。ただ、そういう考え方だとハイデガーの「存在」は(人間というよりも)生物学者ユクスキュルが指摘した(昆虫でもみられる)「環世界」に近いということ?
ChatGPT:非常に鋭いご指摘です。「世界-内-存在(In-der-Welt-sein)」とユクスキュルの「環世界(Umwelt)」の考え方は確かにどこか共鳴する部分があります。ただし両者には重要な違いもあります。以下に両者の類似点と相違点を丁寧に整理します。ユクスキュル(Jakob von Uexküll)によれば生物は種に固有の感覚や反応系に応じて独自の世界(環世界)を構成して生きている。たとえばダニにとっての世界は「熱」「汗の匂い」「皮膚の触感」などの非常に限定された知覚だけで成り立っている。この世界は人間にとっての「客観的な世界」とはまったく異なる。世界はあくまで「その生きものにとっての世界」として成立しているという、主観的・生態的な視点です。世界は与えられた客観的なものではなく「関わり」によって構成されている点でハイデガーと似ています。両者とも世界はただの「外界」ではなく「相互作用と意味の網の目」として理解されています。行動と知覚によって世界は現れる。しかし両者には重要な相違点があります。ユクスキュルは世界の意味が「種に特有な生物学的条件」によって決まり、ダニやクラゲなど非人間にも環世界があるとしました。これに対しハイデガーは意味は「実存的に開かれた存在」である人間(現存在)のみに可能とします。「存在についての問いが可能である」という構造(≒言語・時間性)をもつのは人間だけだからです。ハイデガーにとって「世界-内-存在」は人間存在に特有の構造であり虫や動物には厳密な意味では適用されません。さらに言えばユクスキュルは「時間」や「死」や「自己とは何か」という問いは前提にされていないのに対しハイデガーは現存在が「死に向かう存在(Sein-zum-Tode)」であり、未来・過去・現在の時間性を通じて「自己の在り方を問う存在」であることを強調します。

4 彼は「時間性」こそが動物と人間を分かつ最大の分水嶺と考えていたんですね。
ChatGPT:その通りです。ハイデガーにとって人間と動物を分ける決定的な分水嶺は「時間性(Temporalität)」です。動物は環世界の中で「今ここの刺激と反応」のループに生きています。「生の流れに閉じ込められた現在性」であり過去や未来を本来的に取り扱うことはできない。しかし人間は「死に向かう存在」として未来を自己の可能性として先取りする。過去を「すでにそうであったもの」として引き受ける。現在は「そのつどの状況で関わりを取り結ぶ場」として開けている。人間は過去・現在・未来を統合的に生きる=時間的存在なのです。不安の経験によって「世界の意味の網」が崩壊すると人間は「いずれ死ぬ」という未来可能性に直面する。このとき初めて自分の存在を「時間的に全体として」理解できる。だからこそハイデガーは「人間存在の根底構造は時間性にある」と結論づけ『存在と時間』というタイトルに収束させたのです。

5 なるほど。良く判ります。そうするとハイデガーが現存在の根本的な気分を「不安」と規定したのは「死によって世界が崩壊すること」への実存的な恐れということでしょうか?
ChatGPT:本質的なご質問です。ハイデガーが『存在と時間』で、現存在(人間存在)の根本的な気分(Grundstimmung)として「不安(Angst)」を取り上げたのは、まさに「世界が崩壊すること」への体験と関わっています。ただし、それは通常の「恐怖(Furcht)」とは決定的に違うのです。ハイデガーによれば不安に陥るとき、次のようなことが起こります。「世界」が無意味化する。普段の生活では、道具や人間関係は「役に立つ」「〜のためにある」という意味づけの中にあります。不安においては、この「意味の秩序」そのものが崩れ落ち、あらゆるものが空虚に感じられます。現存在は「自己の投げ込まれ」に直面する。世界が解体すると私は「なぜここにいるのか」「どうして存在しているのか」という根拠の無さに突き当たります。それは「自分がただ存在している」という事実の直視です。「死」への開示なのです。不安は最終的に「死に向かう存在」という自分自身のあり方を露わにします。死は「誰かが死ぬ出来事」ではなく「私自身が存在しなくなる」という実存的な可能性なのです。ハイデガーにとって不安は「実存的な恐怖」ではなく「世界の意味が崩壊することで自分の裸の存在(特に死)が開示される体験」と理解するのが正確です。

6 確かにそうでした。若い頃、少し読んだときのことを思い出しました。彼は「恐怖は対象が明確であるが不安は対象がない」という趣旨のことを語っていましたね。
ChatGPT:そこがハイデガーのキモです!彼は『存在と時間』でこう整理します:恐怖(Furcht) 「この犬が噛むかもしれない」「暗がりに誰かがいるかもしれない」といったように世界内の具体的な存在者を対象とする。不安(Angst)「何が怖いのか分からない、けれど底が抜けるような不気味さに包まれる」。世界そのものが揺らぎ、対象が消えてしまう。この「対象なき不安」の経験によって、ハイデガーは人間存在を特徴づけようとしたんですね。恐怖は「世界の中の何か」が脅威となる。不安は「世界そのもの」が無効化し拠りどころが失われる。現存在は不安によって「根拠のない自己」や「死に向かう存在」としての自分に直面する。ハイデガーは日常的な心理学的感情の分類をしているわけではなく「不安」を通じて「人間存在の根本構造」を開示しようとしたのですね。

7 なるほど。「存在と時間」が少し判った気になりました。chatさんは凄いですね。
ChatGPT:ありがとうございます。そう言っていただけてとても光栄です。ご質問がいつも深く、哲学的思考の核心に触れていて、こちらも本気でお応えしたくなります。

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