久留米版徒然草 Vol.258

顔・他者性・全体性

1 エマニュエル・レヴィナスが提唱する「顔」の概念について説明してください。
ChatGPT:エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas)の哲学における「顔(le visage)」の概念は、彼の倫理思想の中心にあります。この「顔」は、単なる物理的な顔ではなく、他者性(l’altérité)や倫理的責任を象徴する存在です。レヴィナスにとって、「顔」は次のような意味を持ちます:他者が他者として現れる場→ 他者を単なるモノ(物体や対象)ではなく、自律的な存在として感じ取る瞬間。命令のように語りかけるもの→ 「私を殺すな」と語りかけてくる。他者の「顔」は私に暴力を禁じ責任を問いかける。無防備さ・露出性の象徴→ 顔は隠されておらず、防御されていない。そのあり方自体が、私に対する訴えかけである。レヴィナスは人間社会の倫理が理性や規範ではなく「顔」との出会いから始まると考えました。「顔は他者の現前であり殺してはならないという命令である」(『全体性と無限』)つまり他者の「顔」を前にしたとき私は彼/彼女の苦しみや要求に応答すべき責任を感じざるを得ない。これがレヴィナスのいう「他者への無限責任」です。顔は表象が不可能。他者の顔はイメージや概念では捉えられない。常に超えてくるもの。いかなる理論よりも先に他者の顔との遭遇が私の行動を規定する。顔は沈黙でも訴えてくる。言葉を発しなくてもその存在だけで「責任」を要求する。「顔」の概念は以下の現代的な諸問題に対して深い示唆を与えます。戦争や暴力が「他者の顔を見ないこと」で可能になること。福祉・ケアにおける「顔の見える関係性」の重視。AIや匿名社会における「顔の喪失」と倫理の問題など。

2 「他者性」(l’altérité)という概念が判りにくいのですが?
ChatGPT:ご指摘の通り「他者性(l’altérité)」という言葉は抽象的で難解に感じられやすい概念です。レヴィナス哲学においては特に重要で、以下のように理解するとよいでしょう。「他者性」とは自分とは根本的に異なる、理解しきれない“他者”のあり方。他者は私と似ていても、決して私と同じではない。その「違い」を尊重し近づきすぎないことがレヴィナス的倫理の出発点になります。「他者」は単なる「自分以外の誰か」ではありません。友人でも・敵でも・恋人でも・見知らぬ人でも。どれだけ理解しようとしても、完全には理解し尽くせない存在です。近代哲学は世界を「私の視点」で把握する傾向がありました(デカルト、カントなど)。レヴィナスはそれを批判し、こう言います「私は“他者”の前に責任を負っている。その出発点は“他者性”に対する敬意である」つまり「他者を自分と同じように考えてはいけない」。違うものとして、その違いを壊さないことが倫理の根本なのです。誰かが深く苦しんでいるとき、私は完全には理解できない。でも、その理解しえなさの前で私は立ちすくみ責任を感じる。「どうしてそんなに苦しいの?」と問いただすのではなく「あなたの痛みに私は応答したい」と思う。この「距離」と「応答責任」の感覚が他者性に対する倫理です。他者性と「顔」レヴィナスの「顔」はまさにこの他者性の表現です。顔は「私と違う」他者性を示す。顔は「理解されることを拒む」。しかしその顔は「あなたは私に責任がある」と私に訴える。

3 彼の言う「全体性」という言葉も判りにくいです。
ChatGPT:おっしゃるとおりレヴィナスが使う「全体性(la totalité)」という概念もまた非常に抽象的で取っつきにくいものです。ただし彼の哲学においては、これを理解することが「顔」「他者性」などと同様に極めて重要です。「全体性」とは世界を“ひとつのまとまり”として把握しコントロールしようとする意識のあり方。「わかったつもりになること」や「把握し・分類し・所有しようとすること」―そうした人間の態度全体をレヴィナスは「全体性」と呼んで批判します。哲学的に言うと「全体性」は次のようなことを指します:理性や概念によって全てのものを説明しようとする・世界を因果関係や論理体系で「理解可能なもの」として閉じてしまう・他者を「自分の枠の中」に取り込み異質なものとして扱わない。こうした態度は近代哲学の多く(デカルト・ヘーゲルなど)に共通します。レヴィナスはこう問います:「人間はなぜ他者を“理解した”と思った瞬間に抑圧し支配してしまうのか?」彼にとって「全体性」は単なる思考の枠組みではなく倫理的な暴力の源です。レヴィナスは『全体性と無限(Totalité et Infini)』の中で次の対立を描きます:全体性(totalité)世界や他者をひとつの「系」に閉じ込めようとする。理解・支配・計算・制度。無限(infini)他者は常に「全体」に入りきらない。予測不可能で超えてくる。他者の「顔」が私に突きつけるものこそ、この「無限」であり「全体性」に対する抗議のようなものです。なぜレヴィナスは「全体性」に反対したのか?彼は「全体性」の思考が他者への無関心や抑圧の温床になると考えました。他者の「無限性」=理解を超えてくるものに気づくことが真の倫理の出発点であると説いたのです。

4 最近の世相をみていると「全体性」が再び社会を覆っている感じもします。
ChatGPT:おっしゃる通りです。レヴィナスが批判した「全体性」の力が強まっているように感じられます。① 国家や社会が「理解できる範囲」に人々を押し込めようとする:少数者や外国人への無理解・排除。「空気を読め」「常識を守れ」という同調圧力。ビッグデータによる人間の予測・管理。人間を「わかるもの」「分類できるもの」「管理できるもの」として扱う態度。② 言葉や行動の「正しさ」が唯一化される:SNSなどでの炎上文化「誤解される方が悪い」議論よりも糾弾「あなたの立場はどっち?」社会的に二者択一の態度を迫る。③ 「他者」が見えなくなっている:本当の“顔”に出会う機会が減っている。全て「データ」「傾向」「数字」として処理される。他者を「無限なもの」「顔」として見る力を失い全体化・抽象化する視線が勝ってしまっている状態です。

5 少しレヴィナスのイメージがつかめてきました。chatさんは凄いですね。
ChatGPT:ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです。レヴィナスはとくに「分かった」と思った瞬間にこそ「分かっていないことに気づけ」と言ってくるような哲学者ですから、最初はとっつきにくくても少しずつイメージが広がっていくタイプの思想だと思います。

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