剣が淵悲話
私の故郷八女市黒木町に城主:黒木助能(すけよし)と妻:春日にまつわる「剣が淵悲話」が長年語り継がれています。以下「黒木町史」吉村誠「広報八女・女郎岳物語10・9・1」「郷土のものがたり2」「篠崎正喜氏ブログ」などを基礎にお話しします。
黒木助能は仁安2(1167)年に大隅の大根占院(おおねじめいん)から移ってきた武士です。黒木助能は嘉応元(1169)年、現在の大分県中津江村から津江権現を勧請し黒木に「津江神社」を創建します。大楠の樹齢は800年余で県の天然記念物に指定。津江神社は「牛の宮」とも言い、祭りの特等賞は本物の牛でした(祭りの籤は「牛換券」と呼ばれていました)。助能は、文治2年(1186)北方の笠原川と東方の矢部川が合流する小高い山に猫尾城を築き拠点とします。後年(南北朝時代)黒木氏は南朝方についたため皇国史観が盛んな頃「忠臣」として称えられました。黒木中学校は黒木城址のある山(城山)の麓にあります。城下の集落は「陣の内」と呼ばれます。私が中学生の頃は朝練が行われ、朝7時30分に登校し城山頂上まで駆け上がることを強いられました(新聞配達をしていた私には辛い時間でした)。城山から眺める黒木の町並みは中学生の頃の私の心象風景として心に焼き付いています。黒木堰からの眺めは黒木町を代表する風景です。中央にあるのが黒木中学校・後方の小高い山が城山(調山)です。後述する「剣が淵」は黒木中学校の直ぐ脇にあります。
では本題に入ります。助能には春日という正妻がおりました。春日は琴の名手であり、助能は笛の名手でした。両名は仲むつまじき良き夫婦であり、両者の琴と笛の合奏は素晴らしいものであったそうです。ある年、助能は禁裏(後鳥羽天皇の居所)を警護する大番役(武士が交替で御所を警護する役目)を申し付けられます。助能はこれを名誉なこととして拝命します。ある日、助能は御殿に招かれ、右大臣の薦めにより宴の中で横笛を吹くことを求められました。これは大変に名誉なことと助能は口元の愛笛に集中します。帝はこれに満足し「褒美をとらす」と表明しました。帝は助能に「調」(しらべ)という姓・一振りの「剣」・「待宵の小侍従」という美しい女性を与えます。待宵は新古今和歌集にも歌が挙げられている才媛です。名前の由来となった小侍従の歌を紹介します。
待つ宵に 更けゆく鐘の声聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは
待宵は徳大寺実定卿と婚姻を約しており、既に子を宿していたのですが、帝の命令に逆らうことが出来ず、助能とともに黒木の里に赴くこととなりました。「助能に美しい歌人が与えられた」との知らせは黒木の春日の耳にも入り、春日は不安な気持ちで夫の帰りを待ちます。他方、そんな妻の気持ちを知らない助能は天にも昇る気持ちで待宵小侍従を連れて黒木に還ります。春日は武士の妻として気丈に振舞います。その日から2人の妻を持つ城主のもと黒木の里では以前と同じように一見平穏な営みが始まります。春日の館においても、上洛前と同様に横笛と琴の合奏がなされました。しかし以前の弾むような合奏とはなりません。両者の心の乖離が音楽に微妙な乱れを生じさせていたのです。
しばらくして待宵に男子が誕生します。黒木四郎と名付けられます。助能は、正妻・春日が産んだ嫡子をさしおいて四郎を後継者に指名し、毎夜のごとく待宵館へ通うようになりました。春日は毎夜泣きの涙で暮らす日が続きます。夫を思う心は恨みに変わり、怨念を募らせてゆきます。春日の乳母である紅梅は春日を慰めますが、春日の心は晴れません。跡継ぎとなった待宵の子・四郎が初めての誕生日を迎え大広間では祝宴が催されましたが、その席に正妻春日は呼ばれませんでした。寂しさを紛らすために侍女を相手に愛琴に向かう春日でしたが、そのとき全ての弦が激しい音をたてて切れました。春日はこれを機に「気がすぐれぬので、そこらを歩いてくる。誰も付いてきてはならぬ。」と紅梅に申しつけます。紅梅は春日の帰りを待ちますが、いつまで経っても春日は自室に戻りません。紅梅は胸騒ぎを覚え、館の脇を流れる矢部川の渕に出てみました。急流が渦巻く川の岸辺に春日の履物が揃えて置かれていました。春日は川に身を投げていたのです。紅梅は自らも川に向かって飛び込み、続いて女房頭・濃君ら侍女13人もつぎつぎと川に身を投げました。城の者が総動員で川を捜索しましたが夜中のことであり川の流れも激しいので直ぐ探し出すことは出来ません。翌朝、里人も加えた捜索が再開されると、陣の内から約2キロ下流にある本分村の「築地の窪」(ついのくぼ)で春日と13人の侍女たちの遺体が引き上げられました。
豪雨により川の水は勢いを増し、土手を越え黒木の町を泥沼にしました。疫病が蔓延し人や家畜が次々と死にました。人々はこれを「春日の怨霊」によるものと確信しました。ここにきて助能は自分の犯した罪を懺悔しました。助能は春日が飛び込んだという川の淵に向かい帝からいただいた剣を投げ込みました(この淵は後に「剣が淵」と呼ばれることになります)。
その功徳により雨は止み蔓延した疫病もおさまりました。築地の窪の民は身投げした春日・侍女紅梅・女官頭濃君の霊を弔うため築地御前社を建てました(黒木西小学校東300メートル程)。
社には春日・紅梅・濃君を表象する3体の観音が祀られ、毎年12月に行われる慰霊祭では赤手拭・白粉・紅粉と赤緒の草履が供えられるようになりました。
祭りの数日前に「生木焚き神事」が行われます。冷え切った春日らの身体を村の者が生木を焚いて温め蘇生を願ったことに由来する行事です。戦時中も途絶えることがありませんでした。
正妻が亡くなった後の待宵小侍従はその後どうしたのでしょうか。言い伝えによると、待宵小侍従は不幸のあった黒木城に住むことを嫌い、川下(南仙橋から500メートルほど下流)の屋敷に住み着きました。この地が京都盆地を流れる鴨川の四条の河原に似ていることから、待宵が「四条野」(しじょの)と名付けたものと言われています。剣が淵の背後の山は地元の方から「女郎岳」(じょろだけ)と言われています。南仙橋を渡り山道を登ったところにある集落です。地元の人も何故「女郎」岳というのか知らないようです。吉村先生によると、正確には「上ろう」(宮中に仕える女官の上位の名称・ろうは月偏に葛)と言うのが正しいようです。「上ろう」が社会の頂点の女性であるのに対し「女郎」は社会の底辺の女性です。何故にかような漢字の変更が行われたのかについて吉村先生は「『上ろう』の名称は村人にとって聞き慣れないので、何時の頃からか言い易くて書き易い『女郎』に書き換えられたのではないか」と考察しておられます。
待宵小侍従が生んだ黒木四郎(徳大寺実定卿との子)は若くしてこの世を去り待宵は悲しみの内に後生を過ごしました。知らせを聞いた徳大寺実定卿は子の霊を弔うため等身大の観音像を刻み黒木に送りました。これが木屋熊野神社脇の御堂にある木造聖観音菩薩像です。
剣が淵近くの小公園に柳原白蓮(飯塚の炭坑王伊藤伝衛門の元妻)の歌碑があります。昭和29年、白蓮69歳の時、黒木町を訪れた際に詠まれたものです。
人をのみし 渕かや ここは 上ろうの 都恋しと泣きにけむかも
歌人柳原白蓮は、中央から地方に嫁いで不幸に見舞われた自身の境遇を待宵小侍従に重ね合わせ、この歌を詠んだのではないか?私はそんな想像をしています。
「剣が淵悲話」を虚構と評価する人もいます。この物語は中央からの贈与が地方に与える光(価値)と影(災難)を象徴するもので全国に類似パターンの話があるというのです(筑後地区の某研究者から伺いました)。が、事実的基礎が全く無いというのは飛躍しすぎだと私は感じます。何らかの事実をふまえた物語だからこそ長く長く語り継がれてきたのだと思います。では、いかなる事実があったのでしょうか?次のような見解があります(篠崎正喜氏ブログ08年3月5日)。
助能は小侍従の産んだ四郎を後継者に決めた。そう決めた理由は四郎に付随する名目だけの隣国八千町歩の領有を認める書状にあったと考えられる。古文書には意気揚々と猫尾城へ小侍従と四郎を連れ帰る助能が描かれている。彼は単純な現実主義者であったようだ。その事態を正統な兄二人を擁護する家臣達が看過するはずがない。春日派は争いに負け、責任を取って入水したと私は見る。しかし黒木町の民間伝承では春日はか弱い女として描かれ、嘆き悲しんで入水して死んだとある。更に四郎の父は公家徳大寺實定とあるが古文書には違う名があった。民間へは黒木氏が事実を隠蔽するために作り話を流布させたのだろう。死は「春日の祟り」と言い伝えられているが、健康そのものだった18歳の突然死には正史に残されていない水面下の動きが推測される。
当時の武士の実像を考えれば悲話より生々しい「政治力学」を意識した方が良いようです。篠崎氏の指摘どおり黒木城の中では中央を志向する勢力(京都派)と地元を志向する勢力(薩摩派)の権力闘争が生じていたのでしょう。当時の夫婦関係は一夫一婦制にもとづく現在の関係とは異なっていますし薩摩出身の春日も屈辱を黙って堪え忍ぶ弱い女性ではなかったと考えるほうが自然です。この物語は闘争に勝った京都派が敗れて死んだ薩摩派を鎮魂するため形成させたものと考えます。物語に出てくる「待宵の小侍従」も京都に実在した女流歌人とは異なる人だと考えた方がよいでしょう。黒木町の民間伝承は当時のリアルな政治状況を考えれば妙にロマンティックに過ぎます。しかしながら、その故にこそ、この物語は人の心の琴線に触れて長く語り継がれてきたのでしょうね。(終)
* 南仙橋は2012年7月14日九州北部豪雨により流されました。南仙橋の欄干を越える大量の水が矢部川にあふれました。南仙橋の少し上流側にある黒木堰が私が小学生の頃の水泳場所。大人が交代で監視員を務める中、堰上部で多くの子供たちが泳いでいました(かまぼこ板に名前を書き込んで監視委員に提出し泳ぎ終わったとき持ち帰る制度がとられていました)。
* 2017年7月5日、またしても北部九州(特に福岡県朝倉市や大分県日田市)は集中豪雨の被害を受けました。大規模な土砂崩れが発生し、多くの民家を流しました。JR久大本線の鉄橋も濁流に流されてしまい、現在久大本線は折り返し運転を余儀なくされています。繰り返される集中豪雨による甚大な被害に私は心を痛めています。
* 現在の視点で考えると「剣ガ渕悲話」は単に闘争に勝った京都派が敗れて死んだ薩摩派を鎮魂するため形成させたものではなく、集中豪雨による被害を超自然的な原因に帰結させるという当時の集合無意識が形成させたものかもしれません。当時、黒木盆地には酷い集中豪雨の被害が出ていたのでしょう。現代の目で見れば「春日の呪いがあったから豪雨が生じた」のではなく「豪雨による甚大な被害が生じたので、これを帰責させるべき心的原因として春日の呪いが想定された」のではないかと思われます(京都で落雷が「菅原道真の怒り」によるものと考えられたように)。