歴史散歩 Vol.118

デパートの誕生

日本のデパートの歴史は明治37年(1904年)12月20日に三越呉服店専務取締役・日比翁助が「デパートメントストア宣言」をしたことに始まります。この時、東日本橋にあった三井呉服店は株式会社三越呉服店(三井の越後屋の略称)と改称します(家祖・三井高利が越後守と称したことから採用された商号)。が日比がこの宣言をしたときにデパートの実質は存在しませんでした。日比が呉服店のデパートメント化に精力を注ぎ、大正3年に日本橋で近代的店舗(エレベーター・エスカレーターを具備)を開設した時、デパートメントストアの歴史は始まるのです。

 三越本館はルネッサンス様式で金色を多用した華麗な装飾を持つ百貨店建築の代表作です。
 1914(大正3)年の建設ですが、関東大震災の火災で甚大な被害を受けたので、昭和2年に大改修が行われ、昭和12年に増改築が為されて今日の姿になっています。設計は横河民輔率いる横河工務所。鉄骨鉄筋コンクリート造の7階建て(地下1階)です。
  
 日比翁助は万延元年(1860年)久留米市櫛原町にて久留米藩士:竹井安太夫吉樫の次男として生まれました。生家跡は東証上場企業の社長さんの御自宅となっています。翁助は武士の子供として厳格に育てられました。漢学の師・江崎済を慕い八女郡黒木町にあった江崎塾に学びます。

(写真はイメージ:黒木町「学びの館」にある江崎塾の顕彰室・机と漢学の書が多数)

塾は後に八女郡北河内町(現八女市上陽町)に移転します(北ぜい義塾)。八女の松下村塾と評される私塾で、ここから優れた人材が多数輩出しています(アメリカで大成功しポテトキングと言われた牛島謹爾や陸軍大将となった仁田原重行が同窓)。下記写真は黒木町の「学びの館」(旧隈本邸)に掲げられているものです・右が江崎済)。
翁助は明治12年(1879年)に日比家の養子となり、小学校で教鞭を執っていましたが、福沢諭吉を慕って上京し慶應義塾に学びます。日比は明治30年(1897年)三井銀行に入行し翌年三井呉服店の支配人となります。これは当時の慶應義塾出身の三井銀行大阪支店長・高橋義雄が、中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)を通じ、日比の人格を見込んで強力に呉服店入りを要望したからです。日比は「私は元は久留米藩士のせがれ。侍気質が抜けず商売の道には疎うございます。おまけに田舎育ちです。到底呉服店の番頭が務まるはずがありません」と拒みますが、高橋は「今の三井に必要なのは商才のある人物ではない。士魂を持った人物なのだ」と答えます。この言葉が日比の心の琴線に触れて歴史は動き出すのです。日比は以後「士魂商才」をモットーにかかげ職務に邁進します(「和魂洋才」をもじったもの)。明治31年に日比は三井呉服店副支配人に昇格し、呉服店改革を進めました。明治37年にデパートメントストア宣言をした日比は明治39年に欧米を視察しロンドンのハロッズ百貨店を目標と定め、洋服・靴・洋傘など品揃えの幅を広げていきました。山の手に住む新興中産階級を主たる顧客に見据えました。
 林洋海先生(後褐書)の説明。<デパート自体が欧米でもまだ新規の業態で、日本でも一部で知られたばかりで「百貨店」という訳語さえなかった。「一ヵ所で全ての物が買い揃えられる店」というのが今日で言うコンセプトだったが、商品を仕入れるのさえ至難の業だった。デパートの商品というのは消費者がいつ行っても商品が展示されていることが条件である。しかし、まだ大量生産できる工業化が未熟な明治期に百貨を仕入れるためにはデパート自体が商品づくりを指導したり、問屋を整備したりと、生産流通までリードしていかなければならなかった。商品が展示できればそれで店が開業できるわけではない。販売担当の店員の教育もあった。越後屋の店員は丁稚に始まり手代・番頭と昔ながらの年季奉公でやってきた店員たちである。彼らの意識改革と教育も翁助は一手に引き受けなければならなかった。店づくりも大変だった。それまで呉服屋を始め日本の店舗には室内装飾というものが皆無だった。買い物を包装してお客に渡すという習慣もなかった。デパートという巨大店舗にはその売り上げを満たす集客が重要だが、その方法さえ無かった。(268頁)
 日比はその後、食堂の開設(お子様ランチが目玉)屋上遊園地の開設(子供達の人気の的)女性社員の採用(当時は画期的なこと)子供博覧会(幸せな家庭生活を演出)文化行事(「流行研究会」という学者との交流を誇る)美術展の開催(横山大観・黒田清輝・和田英作等大物揃い)など今日のデパート運営に繋がる革新的な経営政策を次々と打ち出していきました(初田亨「百貨店の誕生」ちくま学芸文庫)。有名な広告コピー「今日は帝劇、明日は三越」(浜田四郎作)も採用。これらが大量集客のための極めて強力な手法であることは今日では常識ですが、いずれも日比のリスクを取る挑戦から生み出されていったものです。新聞広告を取り次ぐ広告代理店も翁助の三越が利用するようになって始めて事業として成り立つようになったものと言えます(林)。

日比は社員に対して「士魂」の表現として「接客には親切を尽くすことが何より大切である。口先ばかりの親切ではいけない。腹の底から出た命がけの精神でなくてはならない」と説きました。「身には前垂れを纏うとも心の内には兜をかぶっている心意気で商売道に精励せよ」と訓示し「店員の五禁」として以下の行為を厳禁しました。
  1 欠伸(あくび) これくらいお客様に対して無礼至極なものあらず。
  2 無愛想     これくらい不愉快を与えるものあらず。
  3 陰口      これくらい嫌な感情を起こさしむるものあらず。
  4 舌打ち     これくらい人をバカにしたるものあらず。
  5 懐手      これくらいお客様を逃がすものあらず。
 さらに日比はお客様をよく観察するよう社員に徹底します。「お客様といえば一列一体ただ買物にのみ来店する人々と思わば、そは三越の小僧として大なる不覚なり。大間違いなり。三越の盛大につられて、のんきに遊ぶ人々と見るも了見違い、むしろ自惚れの骨頂と謂うべし。何となれば、仮にお客様を区別して見れば
  1 買物の御客様
    これは単に買物を目的に来られる御客様なり。
  2 娯楽の御客様
    これは子供衆を同伴、一日を楽しみの御客様なり。
  3 怒れる御客様
    これは家庭にて何か怒ることありて、気散じの御客様なり。
  4 泣いている御客様
    これは家庭にて何か争いごとまたは煩悶ありたる御客様なり。
  5 困っている御客様
    これは家庭に事情あり憂晴しの御客様なり。
  6 贔屓の御客様
    これは何でもかでも三越に限るという御客様なり。
  7 不贔屓の御客様
    これは三越は高い贅沢なりといいながら見える御客様なり。
  8 見物の御客様
    これはわざわざ地方より上京観覧さるる御客様なり。話の種となるなり。
  9 病気の御客様
    これは神経の過敏なる御客、腫物の如き御客様なり。
 10  同業の御客様
    これは批評家たるべき御客様なり。大事なり。
 かくの如き多数の客気質あるを知らず、同一に一本調子の扱いする小僧は新米小僧にあらざれば横着小僧なり。逸早く御客様のこの種類に心付く小僧あらば、そはまさしく智恵小僧なり。」(日比翁助「三越小僧読本」)
  
 三越のシンボル:ライオン像はロンドン・トラファルガー広場の像を模写したもの。日比翁助が(息子に「雷音」と名前を付けるほど)大のライオン好きだったので設置されました。百貨店界の王者になって欲しいという願いも込められています。本店のライオン像は第2次大戦中の金属供出で軍に接収されますが、運良く溶解を免れ、戦後、東郷神社に奉納されたままになっているのを社員が発見し、昭和21年に本店に戻ってきたものです。三越本店ウェブサイトに次の説明があります。

待合わせの場所として親しまれながら本館正面玄関でお客様をお迎えする2頭の「ライオン像」。この像が誕生したのは大正3年(1914)のことです。この「ライオン像」の注文主は三越百貨店の基礎を築いたとされる当時の支配人、日比翁助。その日比が百貨店開設の準備のため欧米を視察したときにイギリスで注文したものです。ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔の下の4頭の獅子像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したものです。完成まで3年の歳月を要したこの仕事はイギリスの彫刻界でも相当な話題となりました。現在ではその気品と店格を象徴して、三越の象徴的存在でもあり、また、東京名物のひとつとしても親しまれています。

日本の百貨店の基礎を築いた日比翁助は昭和6年に世を去りました(享年70歳)。翁助の墓は広尾祥雲寺にあります(地下鉄広尾駅直ぐ)。久留米藩有馬家墓地の一角です。久留米藩士の息子として生まれた日比翁助は旧藩主の近くで永眠しているのです。

 * 参考文献 篠原正一「久留米人物誌」(昭和56年)菊竹金文堂
* 林洋海「<三越>を作ったサムライ日比翁助」(現代書館)が詳細です。
* 三越は福岡市の天神にも店舗を有しています。ライオン像も置かれていますが、この像が久留米出身の人物に由来することの説明はありません。少し寂しく思います。
* 和田博文「三越誕生!」(筑摩選書)が発刊されました。膨大な情報が盛り込まれています。時間のあるときに要約して補充したいと思っています。

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