5者のコラム 「5者」Vol.167

具体的な個々の存在を主張

数学の歴史は人間の抽象化能力拡大の歴史でした。数は具体的にモノを数えるところから出発したと考えられますが、あるときインドにおいてモノと対応しない「ゼロ」という数字の観念が考案されます。インド人は抽象化の能力に秀でていたようで「3から1を引くと2。2から1を引くと1。では1から1を引くと何?」といった思考の延長線上で0を発見したようです。0を出発点にマイナスの世界を探求することが出来るようになり、その後、無理数や複素数などの数学的概念は飛躍的な拡大を遂げていきました。抽象化の能力によって我々は「具体的なモノを離れた数字」を観念的に弄ぶことが出来るようになったのです。おそらく具体的なモノを並べて数える作業対象としての1000という数字は限界なのではないかと感じます。100という数字に相当するモノを実際に並べることは比較的簡単にできます。しかし1000は違う。これを実際にモノとして並べるのは相当に苦労します。千手観音菩薩の作像例をみても1本の手を25手に見立てて40本作り全体として1000手とみなす抽象化した像が多い。奈良・唐招提寺の千手観音像は本当に1000本の小さい手を備えていますが、ちょっと異様な感じを否めません。吉野修験道における千日回峰行も・アラビアンナイト千夜一夜物語も「1000という数は実際に並べることが尋常でない」という評価を伴っているからこそ宗教的な意味(感銘力)を持つのでしょう。私はある時「5者のコラムを1000本書く」という願をかけました。これも「実際に行うことが尋常ではない」というハードルを「それを達成したとき自分の成長の記録となり得る」ハードルを自分に課したかったからです。目標到達を目の前にして過去に書き連ねたコラムを読み直しています。各コラムの個性を感じます。1つ1つのコラムが抽象化を免れて具体的な個々の存在を主張しています。少し愛おしく思えます。 

芸者

前の記事

依頼者の欲望・自分の欲望
5者

次の記事

挫折の危機と克服